岩戸屋(新潟県妙高市)は古くから湯治場として知られる燕温泉で「ホテル岩戸屋」を運営する。創業100年の歴史を誇るが、3代目の経営者の死去で後継者問題に直面し事業を売却することを決断。公的機関やインターネットによるM&A(合併・買収)仲介システムを手掛ける企業から買い手探しを支援してもらい、長野県内で4軒の宿泊施設を運営する経営者に後を託すことになった。

豪雪地域の小さな温泉宿が客室18部屋のホテルに
燕温泉は妙高高原で最も標高が高い豪雪地域にある。戦国時代の武将、上杉謙信が隠し湯としていたともいわれる。明治時代から温泉街としての開発が始まった。環境省から温泉利用の効果が期待され、健全な保養地として活用する「国民保養温泉地」にも指定されている。
岩戸屋は同地で1907年に創業した。戦後には湯治客のほか登山客やスキー客も訪れるようになり、宿泊需要が増えた。1970年に経営者として3代目の故宮沢一英氏が客室18部屋を抱えるホテルに建て替えた。
一英氏夫人の恵美子氏(90)が経理を担当して夫婦2人を中心に切り盛りした。「スキー教室に来る高校生の団体客などで満室状態になることも多かった」(恵美子氏)。10年ほど前からは長女の野本ゆかり氏(66)が「父も母も年を取ってしまったので手伝わなければ」と週末や繁忙期を中心に居住先の同県糸魚川市から応援に来ていた。

事業売却を決断も 買い手がなかなか決まらず
ところが、2020年に一英氏が死去。社長は恵美子氏が引き継いだが、すでに生活拠点が別の場所にある野本氏をはじめ、親族に恵美子氏の後を継ぐ候補者はいなかった。いずれも高齢だった従業員の中にも候補者はおらず、恵美子、野本両氏は岩戸屋の事業を第三者に売却することを決意。「父が亡くなってから1年後の2021年夏、新潟県事業承継・引継ぎ支援センターに電話した」(野本氏)
同センターの担当者は岩戸屋を何度も訪ねて恵美子、野本両氏と面会。必要な書類などを取り寄せながら、親身に相談にのってくれたという。新潟県外の買い手を見つけやすくしようと、2023年春にインターネットによるM&A仲介システムを展開するバトンズ(東京・中央)にも売り手として登録することを勧めた。
センターとバトンズは候補者を3人紹介してくれたが、いずれも条件が合わなかったり、承継のための資金が準備できなかったりした。

旅館再生の若手経営者が買い手候補に
2023年9月に4人目の買い手候補者として紹介されたのが、ヤドロク(長野県山ノ内町)社長の石坂大輔氏(43)だ。ヤドロクは長野県内で4軒の旅館やホテルを経営する。渋温泉(同)で廃業し競売に出された温泉旅館を、訪日外国人(インバウンド)をターゲットにした旅館として2015年に再び開業したのが実質的な創業だった。
石坂氏は大学卒業後、証券会社にトレーダーとして勤務。一方で、高校在学時に姉妹都市交流による旅行や個人旅行でオーストラリアを訪れた経験から、旅行業にも興味を持ち続けた。「宿でのいろいろな人との一期一会が楽しい」と宿泊業を展開することが夢だった。
2012年に大手リゾート会社に転職し、長野県の宿泊施設に勤務して「北アルプスをはじめとした長野の魅力に引き込まれた」(石坂氏)。子供が生まれたことを機に証券会社に再転職した後、渋温泉の旅館が競売に出されたことを知った。長野県を訪れる外国人は増えていたが、「渋温泉で訪日外国人に力を入れている宿はまだ少ない。国も訪日外国人を増やす政策を掲げ、伸びるのは確実だ」。証券会社を辞め、起業を決断した。
買い取った旅館を改装し経営を軌道に乗せた。その後、渋温泉の別の廃業していた旅館も再生させた。手腕を見込まれて志賀高原や長野県栄村の宿泊施設の運営も受託。ヤドロクは長野県内で4軒の宿泊施設を展開する企業となった。
事業拡大のため他の宿泊施設のM&Aも視野に買い手として登録していた。そんな中で2023年9月にバトンズのサイトを通じて知ったのが岩戸屋だった。隣県とはいえ、渋温泉から燕温泉までは上信越自動車道経由で車で1時間余りと近い。燕温泉は国民保養温泉地に指定されており、石坂氏は「燕温泉のある妙高高原も長野県と同様、スキーなどを楽しむ訪日外国人が増えていることを魅力に感じた」という。

「源泉かけ流しの温泉は資源」
2023年9月に石坂氏は岩戸屋を訪ね、館内の説明を受けながら恵美子、野本両氏から話を聞いた。岩戸屋を直接見て特に魅力を感じたのは、源泉かけ流しの温泉だ。ほのかな硫黄臭がある乳白色で、炭酸水素塩や硫酸塩、塩化物といった豊富な成分が含まれている。石坂氏は「(温泉は)石油と同じ資源のようなものだ」と感じた。
事業を売却する上では、築50年以上たったホテルの老朽化も懸念材料だった。しかし、石坂氏は「昭和初期の建物もある、うちの他の宿泊施設と比べれば全然問題ない」と意に介さなかった。
登山客の割合も大きく、スキー客頼みではなく通年で安定した集客が見込めることもデータで確認できた。「ここも訪日外国人を意識した運営に変えれば、十分集客は見込める」。そう判断した石坂氏はセンターとバトンズを介して買収の意思を伝えた。
恵美子、野本両氏は、一英氏の死去から3年間で候補者が3人現れてもなかなか正式に後継者が決まらない状況に不安を抱き続けてきた。両氏は石坂氏の第一印象を「社長なのに偉ぶらず、親しみやすい方」(恵美子氏)と感じた。一方で「このまますんなり売却が決まるだろうか」という警戒感が解けないままだった。買収の意向表明があったとの連絡をバトンズから受けた日も「これまでの経緯があり、石坂氏には申し訳なかったけど実感がなかった」(野本氏)とふり返る。
恵美子氏が高齢であることなども踏まえ、センター、バトンズはヤドロクへの円滑な承継を強力に支援。岩戸屋が立地する国有地の利用継続に向けた書類作成の支援などに当たった。他の候補者と比べて「自然体でいろいろと話をしやすかった」(野本氏)という石坂氏の姿勢もあり、不安は徐々になくなっていった。
2024年2月、3人は株式譲渡契約を交わし、岩戸屋はヤドロクの完全子会社となった。譲渡当日、岩戸屋のホームページで「株式会社ヤドロクの石坂大輔さんが、ホテル岩戸屋の新代表となりました」と発表した。
自炊ができる長期滞在型の施設に
岩戸屋の新社長となった石坂氏は、訪日外国人を意識した宿泊施設に変えようと、すでに計画を立て始めている。妙高高原に多い欧米系の外国人は、コンドミニアムのような自炊ができる施設で宿泊代を抑えながら2週間から1カ月長期滞在する観光客が多い。長期滞在しながら、仕事もするワーケーションに取り組む客もいる。このため「共同で利用できるキッチンをつくり、WiFi環境も整備する」(石坂氏)という。渋温泉の旅館を再生させたように「他の旅館のようにシニア層は狙わず、ヤドロクが強みとする訪日外国人をもっと入れる」ことで、稼働率を向上させる。
一英氏に嫁いでから約70年、岩戸屋の看板を守り続けてきた恵美子氏は「会社の代表から外れたことで気が楽になった」と安堵の表情を浮かべる。業務を引き継ぐことが決まり、余生の過ごし方をゆっくり考える時間ができたようだ。
(一丸忠靖)
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