あなたの職場では「まず認知を上げるために、お試し価格で安売り」をしていませんか? 安易に行うとかえって売り上げ低下を招くことが、行動経済学で実証されています。一方で、うまく使えば競合からの顧客獲得にもつなげられると指摘するのは、 経済学者で慶應義塾大学教授の星野崇宏氏です。蓄積された膨大な学術研究とビジネス現場で培った経験から、プライシングに関わる行動経済学の知見を解説します。政策研究大学院大学教授の安田洋祐氏との連載「インフレ時代の値段のつけ方・考え方」8回目です。

同じ1万円でも、もらう状況で「うれしさ」が全く違う? 曖昧な人の感覚
突然ですが、臨時収入として1万円もらえる状況を想像してみてください。もちろんうれしいですよね。
では、「会社からボーナスを支給された直後」と「手持ちの現金・電子マネーの残高がゼロのとき」では、どちらがうれしいでしょうか? あるいは、「100万円を持っているときの1万円」と「すっからかんのときの1万円」では、どちらがうれしいですか? 「手持ちの現金・電子マネーの残高がゼロのとき」「すっからかんのとき」の臨時収入をうれしく感じる人が多いのではないでしょうか。
同じ1万円でも、もとの状態(手元にお金があるかどうか)によってうれしさは異なる。他愛もないこの話は、ノーベル経済学賞を授与された行動経済学の有名な理論、そして企業が値決めを考える際に非常に重要な「行動プライシング」の基礎でもあります。それが行動経済学の祖であるトヴェルスキーとカーネマンが提唱した「プロスペクト理論」です。今回は行動経済学の学知を活用したプライシングについて解説します。
一時的な値下げが長期的な売り上げに及ぼす影響とは
行動プライシングについて説明するために、実際の関連する例をあげましょう。とあるスーパーでビール6缶パックを1,480円で売っていて、これが1日に100個売れていたとします。
では問題です。メーカーがこの店舗で販促のために、1カ月間、200円引きの1,280円で売ったとします。販促期間中は1日150個も売れました。よしよし成功、ということで値段をもとに戻します。では、その後1カ月の1日の平均売上は何個になるでしょうか?
「夏はよく売れる」というような季節性や突発要因は除外したと仮定して、以下の4つから選んでみてください。
① 150個
② 100~150個
③ 100個
④ 100個以下
選ぶにあたって少し補足をすると、③の場合、つまり販促期間前の売り上げ個数に戻る場合というのは、顧客の全員が、経済学が仮定する「合理的経済人」ということになります。本稿の冒頭の例でいえば、「100万円を持っているとき」でも「すっからかんのとき」でも、臨時収入の1万円に同じ価値を感じ、全く同じくらい「うれしい」と思う人たちです。
販促の有無にかかわらず、缶ビールを1,480円で購入したい顧客100人がその店を訪問していて、1,280円にしたら新たに50人が購入したけれども、1,480円に戻ってもまた100人が買う。顧客が合理的経済人であれば、購入数は販促期間の前の100個に戻るだけです。
一方、①、つまり販促時と同じだけ売れるというのは、さすがに虫が良すぎるでしょうね。では、②でしょうか? 特にマーケターの方なら「過去には買わなかった顧客が値引きでトライしてくれ、認知が得られたので②の結果になるはず」と考えるでしょうか。多くの企業が実施する値下げキャンペーンも、まさに②の結果を狙ってのことだと思います。本当に狙い通り、②の結果になるのでしょうか?
期間限定の値下げのはずが、もとの値段が「高く」感じられてしまう訳
さて、多くの読者の方は「ここまでいわれたら、答えは②ではないだろう」と感じているかもしれません。その通りです。データ分析をせずとも、こうした値引きキャンペーンの結果は、実はほとんどの場合で④になってしまうことが実証されています!
企業側としては「期間限定で値引きをして値段をもとに戻しただけ」と思うかもしれませんが、消費者が受ける影響は全く異なります。もとに戻った値札を見て、「前に買ったときより高くなった」と思い、購入意欲が低下することが多いのです。このように感じるのは、値下げ前からの顧客であっても同様です。
これを説明するのが、行動経済学において最も有名でかつさまざまな現象を説明するのに利用されている「プロスペクト理論」です。この理論にはいくつもの要素がありますが、今回はその中でも特に、プライシングに関係する価値関数(特定の状態や行動の価値を数値で示す関数)の性質として、
(1)利得と損失を判断する参照点がある
(2)参照点から遠いほど効果が逓減(ていげん)する
(3)利得と損失への反応に非対称性がある
という3点を取り上げます。
損得勘定と密接に関わる「プロスペクト理論」の3つの性質
(1)利得と損失を判断する参照点がある
冒頭の1万円の話と同様に、ある物の値段を何らかの参照点と比較しながら評価する、というのが参照点効果です。
合理的経済人であれば、「ある商品やサービスに対して自分はいくら支払ってもよいか」を見極められるはずです。しかし私たちはそこまで日常的な買い物で一生懸命に価値判断をしていますか? 詳しくは次回以降で取り上げますが、私たちは多くの日常的な決定を短時間であまり労力をかけずに行う「システム1」の思考モードで行っています。
時間をかけない決定では、まずはいつもの商品を買う(習慣行動)のがデフォルトです。その際には、何か(=参照点)と比較して、それより良いか悪いかで決めればいい。特に価格に関しては「前の価格、頭の中の価格」が参照点で、それより値段が上がったか下がったかで判断をします。
(2)参照点から遠いほど効果が逓減する
前述のように、私たちは参照点をもとにものの価値を考えていますが、参照点の影響はつねに一定ではありません。参照点から離れるにしたがって、ありがたみと損失を感じる度合いは徐々に低下することがわかっています。
合理的経済人であればいついかなるときも1万円の価値は同じはずです。しかし一般には「すっからかん=0円(参照点)」の状態から見て、1万円は大きな価値がありますが、「100万円」を持っているときの追加の1万円の価値の上昇分は小さい、と思ってしまうのは自然ですよね。
このような性質を、プロスペクト理論では、価値関数(図2のS字の曲線)で表現しています。横軸の真ん中が参照点、右側は参照点からどれだけ受取額が多いか、左側は支払額が多いかを表します。受け取りでも支払いでも、額が多いとその価値の増え方が減っていく(逓減する)ことがこの価値関数で表現されています。
多額のお金を持っていたら1万円の臨時収入にはあまり価値を感じないように、株式投資で100万円の損失が発生したときには、追加の10万円の損失はあまり大きな額に感じないというのも、この曲線の左下側で表現されています。
東日本大震災前後で人々を追跡調査したデータから、「震度(被害の度合い)が高い地域ほど、リスクを許容しやすくなる」といった経済学研究(Hanaoka et al.,2018)があります。このことも、大きな損失があると、人は追加の損失を許容しやすくなるということを示しているといえるでしょう。
(3)利得と損失への反応に非対称性がある
特に重要な性質として、参照点からプラスか(利得)マイナスか(損失)で、傾きの大きさが違う(受け取る価値のインパクトが異なる)という点があります。
自分が今持っている金額がいくらか(参照点)にかかわらず、そこから1万円もらえたら(利得)、うれしく感じます。一方で、同じ1万円でも、もらうよりも支払う(損失)ほうが、心理的なインパクト(価値)としてははるかに大きくなるのです。
一般に利得より損失のインパクトが大きいことを「損失回避傾向」と呼びます。この傾向には個人差があることも知られています。年齢が高いほど、そして性別では男性より女性のほうが、利得よりも損失を強く感じる傾向が高いようです。
「期間限定値下げキャンペーン」が顧客に与える影響を改めて考える
さて、この価値関数の性質を踏まえて、改めて値引きについて考えてみましょう。1,480円の商品を初めて200円引きにした時点では、参照点(価格の場合は「参照価格」と呼ばれます)は1,480円ですから、そこから200円の利得があり、顧客はお得に感じます(図3のA)。
しかし、これを1カ月間続ける中で、何度か買った人あるいはビールのコーナーで価格を見た人の「頭の中のプライスタグ(値札)」である参照価格は1,280円に置き換わってしまいます(図3のB)。
そして1カ月後、企業側が「顧客の商品への認知が広まった」と考えて200円引きをやめ、1,480円に戻すとどうなるでしょうか。確かに認知は広がったかもしれませんが、参照価格は1,280円に置き換わっているわけですから、顧客にとっては200円の値上げになり、損失を感じてしまうのです(図4のC)。
しかも、(3)の性質から、「値引き開始時に感じた200円の利得」と「値引き終了時に感じた200円の損失」では、そのインパクトの感じ方は後者のほうが大きい。したがってAで売り上げが50%増えても、Cでその50%を超える売り上げの減少が生じます。結果として、一時的な値引きは、高確率で売り上げの損害につながり得るのです。
値段以外にも品質・年齢・性別を意識して商品やサービスを考えるべき
この参照価格効果による一時値引きの問題については、これまでも調査や実験室実験はもちろん、実際の小売りデータを分析した研究などさまざまな実証研究でこの現象は追試されてきました。Neumann & Bockenholt (2014)は、参照点からの損失回避傾向が存在していることを示しています。日用品だけではなく旅行予約や不動産、医療サービスなどの33研究の109の分析結果を統合したこのメタ分析では、耐久財が特に参照価格効果が強いことも示されています。
一時値引きに限らず、基本的に値下げのインパクトは同額の値上げのインパクトより大きいこと、頻繁な一時的値引きをするとその効果がどんどん小さくなること、また価格だけではなく品質でも同様に「基準となる質」に対して高いか低いかという点で損失回避傾向が見られることも知られています。
リスク回避傾向が高い消費者(高齢者や女性)を対象とする場合は自社製品やサービスの優れた点をさらに良くするよりも、劣った点を是正するほうが選択されやすくなる、また若年層や男性ではその逆の傾向がある、という研究もあります。
この参照価格効果を踏まえれば、スーパーでのビールの値引きキャンペーン後の販売量が、販促前よりも減ってしまった理由がわかるかと思います。また、この効果を逆手に取ることで競合からの顧客獲得にもつなげられるでしょう。次回はその方法について解説します。
【参考文献】
ダニエル・カーネマン、村井章子訳(2014)『ファスト&スロー』早川書房
Hanaoka, Chie, Hitoshi Shigeoka, and Yasutora Watanabe. (2018). Do Risk Preferences Change? Evidence from the Great East Japan Earthquake. American Economic Journal: Applied Economics 10 (2), 298–330.
Nico Neumann, Ulf Böckenholt. (2014). A Meta-analysis of Loss Aversion in Product Choice. Journal of Retailing 90(2), 182-197.



