ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:〆切前に「まだ一文字も書けていない」と言う作家の脳内で起きていること)は、〆切前なのに一文字も書けていない芦沢さんが頭の中で考えていることについての話でした。今回は、読者を失望させたくないと思いながら作品を書いているという話です。(編集部より)

「幻滅されたくない」
前回は、私の仕事のペースが年々遅くなっている件について書いた。
デビュー14年目、単著だけでも17冊の本を出し、それなりに小説を書く経験値を積んでコツもつかんできているはずなのに、なぜ速くなるのではなく遅くなるのか、という話だ。
歳を取って体力や集中力が落ちたから。
デビュー前から抱えていた「書きたいこと」を書き尽くしてしまったから。
一度やったことはもうやりたくないのに、書けば書くほど自分の中の「これはもうやった」という範囲が増えていくせいで、選べるアイデアが限られてくるから。
いくつかの原因を考えたところで、今度は「なぜ一度やったことはもうやりたくないのか」という疑問が浮上した。
「書く前から書いた後の結果がほとんど見えてしまっていると、執筆中のワクワク感がなくなってしまうから」という真っ先に浮かんだ理由を書いたものの、我ながらこの理由には自分をかっこよく見せるための欺瞞(ぎまん)のにおいを感じた。
そのため、「それでは本当の理由とは?」と連載らしく引きを作ったところで締めたのだが、実のところ、結論を先延ばしにしたのは私自身本当の理由については深く追及したくなかったからだ。
あまりにかっこ悪くて情けない理由すぎて、自分でも直視したくなかったし、打ち明ければ読者や編集者を幻滅させてしまう気がした。
だが、実はこの「幻滅されたくない」という思いこそが、「なぜ、私は前にやったことをもう一度やりたくないのか」という問いへの本当の答えなのである。
前にやったのと同じことをやれば、過去の自分と比べられることになる。「前の方が面白かった」と言われるのはつらい。自分が成長どころか退化しているように感じられるからだ。
しかも、特にミステリの場合、「驚き」が読了後の満足感とも直結していることが多いため、二度目以降は最初から不利な戦いを強いられる羽目になる。「んーまあ面白かったは面白かったけど、こういうパターンのやつは読んだことあるな。てか、この人の前の作品でもあったじゃん。前の方がインパクトもあったし面白かったけどなあ」となってしまうのだ。
実際には、読者は刊行順に本を読むとは限らない。最新刊で初めてその作家に出会って、気に入ったから同じ作家の既刊も読んでみよう、となるケースも少なくない。だが、書いたのとは逆の順序で読まれる場合でも、「前の方が面白かった」と言われてしまうのはきつい。今の方が面白いのなら成長しているということだと感じられるのはいいが、結局のところ読者をがっかりさせていることに違いはないのだから。
夢を見させなければ仕事がなくなる
読者を失望させることは、作家生命にかかわる。
「この作家の本はもういいや」と思われてしまったら、その読者はなかなか帰ってきてくれない。読まず嫌いなだけなら、「ちょっと話題になってるみたいだし、試しに読んでみようかな」となることもあるが、読んだ上で「もういい」という判断を下した読者は、ちょっと話題になっているくらいでは手に取らない。
何せ、読者からすれば選べる本は無数にあり、人生の時間は限られているのである。わざわざがっかりする可能性が高い作家の本を選ぶよりは、気に入るかどうか未知数な新しい作家の本に挑戦した方がいい、と考えるのは道理だろう。
そうして読者が減っていってしまえば、部数が出なくなる。ただでさえ全体的に年々部数が減少傾向にあるというのに、それを上回って売れなくなっていったら、出版社からの仕事の依頼が来なくなるかもしれない。
では、どうすれば読者にがっかりされずに済むのか。
最も簡単でシンプルな方法は、期待させないことだ。期待させなければ失望されることもない。
え、それじゃダメなんじゃないの? と思われたことだろう。その通り、それではダメだ。期待してもらわなければ、そもそも読んでももらえない。
作家の仕事とは、人に夢を見させる仕事である。
まず編集者に、「この作家は面白い作品を書きそうだ」という夢を見させなければならない。企画段階で、第一稿で、改稿の中で、「この作品は磨き方次第で傑作になるかも」と思ってもらえれば全力で取り組んでもらえるし、「この作品はプロデュース次第でバカ売れするかも」と思ってもらえれば、初版部数を多くしたりプロモーションに力を入れたりしてもらえる。
大抵の編集者は、常に数十人の担当作家を抱え、年間で十数冊もの本を編集している。編集者もすべての担当作に全力を出すことはできない。いや、常に全力を出そうとはするかもしれないが、必ず力の入り具合に濃淡ができる。
なぜなら、濃淡をつけなければ編集者として結果が出せないからだ。
営業部に対して、毎回「これは傑作なんですよ! 初版部数を多めにすべきです!」と熱弁していたのでは、営業部はその言葉を本気では受け取ってくれなくなる。プロモーションに関しても、推し進めるのが人間である以上時間のリソースが限られているし、プロモーションとして使える媒体の枠にも限りがある。すべての担当作が少しずついろいろなところで取り上げられるより、絞り込んだ数作のプロモーションを大々的、戦略的に展開していく方が効果が大きい。ビジネスとして最大利益を出すためには、作品ごとに濃淡をつけるしかないのだ。
それはつまり、作家からすれば「濃」の方に入らない限りは結果を出すチャンスすらつかみづらくなることを意味する。
自分の中で反論できる根拠が必要なのだ
次に作家が夢を見させなければならない相手は、もちろん読者だ。これは上でも書いたことだが、読者に「この本面白そう」という夢を見てもらえなければ、読んでもらえることはない。
読者に夢を見てもらう一番の方法は、面白い作品を書くことだ。「この作家を追いかけたい」と思ってもらえれば、次の本も手に取ってもらえる。
では、まだ自分の本を読んだことがない人にはどうやって夢を見てもらえばいいのか。
ここで再び編集者の出番である。編集者は、本の顔の部分につけられた帯で最大限に「盛る」。「あなたも絶対に騙される!」「驚天動地!前代未聞のトリック!」「◯◯ランキング第1位!」――作者としては、そんなにハードルを上げたら下をくぐるしかなくなるよ……と言いたくなるほど、読者の期待を煽れるだけ煽るのだ(結果、「帯で絶賛されていたほどではなかった」「帯のせいで上手く楽しめなかった」という批判が一定数寄せられることになるが、それでもそうした帯をつけることで読んでくれる人が増えるのが事実である以上、販売戦略としては間違っていない)。
つまり、作家は(あるいは違う仕事でもそうかもしれないが)夢を見てもらう――期待してもらうことによってしか結果を出すチャンスは得られないのに、期待されればされるほど失望される可能性も上がり、失望されれば仕事が減るという構造の中で仕事をしなければならないということである。
本は手に取ってほしい。でもあまり期待しすぎないでほしい。失望されたくない。けれど同じ路線で書き続けて、常に一作ごとに成長を見せていける自信はない……
それが私の本音だった。数年に一度のペースで本を出すのであれば、同じ路線でも成長を見せられるかもしれないが、たかが半年やそこらではそこまで変わらない。少なくとも私自身が、変わっているという実感を持てない。
結局のところ、私の場合は自分自身がどう思えるかが重要なのだ。どんな作品を出そうと、絶賛もあれば酷評もある。そういう意味では、ここまでの文章と矛盾しているように思われるかもしれないが、私は「前の作品よりつまらなかった」という声自体を過度に恐れているわけではない。ただ、「前の作品よりつまらなかった」という声に対して、自分の中で反論できる根拠がない状態が嫌なのだ。
「今回はこれこれこういう企みを持った作品で、だからこういう手法を取った。読者によっては好みと合わないこともあるかもしれないが、私が今作でやりたかった試みはこれなのだ」という確信があれば、どんな感想も受け止められる。ノーガードのままでは酷評されたときのダメージが大きすぎるため、どんな感想も目に入れることすらできなくなってしまう。
そこで私は、これまで必ず自分なりの企みと試みを設定することで書き続けてきた。同じ路線において企みと試みを見つけられないときは、思い切って新しい路線のものに挑戦した。主戦場がミステリなことに変わりはないものの、そこにホラーを加えてみたり、SFをかけ合わせてみたり、1冊の中に純文学的な書き方をしたものとエンタメ的な書き方をしたものを入れて対比させる試みをしたりして、明確に自分の中で「前には書いていないもの」を書くタイミングを設けてきたのだ。
異なる路線に挑戦した後なら、同じ路線に戻ってきても新しい企みや試みが思いつきやすい。螺旋(らせん)階段のように、ぐるぐると回りながら少しずつ上がっていくことを目標にすれば、私のような小心者でも作品を発表し続けられるだろう、と考えたのである。
“2匹の死神”に追われる
だが、ここに来て私は窮地に立たされている。
なぜか、シリーズものを書くことになってしまったのだ。正確には、既に1冊の本として刊行したものの続きを書かなければならなくなった。
「シリーズもの」は、それ自体が常に既刊と比べられる宿命を負っている。しかも、書くことになったのは、1巻目を書いたときにはシリーズにするつもりなど毛頭なかった本――完全に1巻完結のつもりで綺麗に締めくくった物語の続編だ。
私は担当編集者から送られてきたスケジュールに関するメールを眺めながら、しばし呆然とした。え、これ本当に私が書くの? どうやって? 書き上げられる気がまったくしない。そもそも本当に続編を書くべきなのか。続編なんて書いたら、せっかく上手く完結させたはずの作品が台無しになってしまうんじゃないか……そして、完全にパニックになった私は、あろうことか、もうひとつシリーズを始めることにした。
「ある作家はシリーズものを書くのが嫌すぎて、さらにもうひとつシリーズを始めることにしました。さて、どういうことでしょう?」という水平思考クイズが作れそうなくらい、どうかしている。
一応、当時の自分の弁明をしておくと、私は「1巻目の段階からシリーズ化を想定しておく」という少しはやりやすい形でのシリーズをやってみることによって、シリーズを書くコツを少しでもつかめないかと考えたのだった。
我ながら、よほど気が動転していたのだろう。どう考えても、コツをつかむほどの時間的余裕があるわけがないのに、それしかどうにかする方法はないと思ってしまったのだ。
案の定、コツなんて少しもつかめていないうちに両方の〆切が設定され、頭を抱えることになった。単に難題が増えただけである。私はアホなのだろうか。
――そうしたわけで、今、私の後ろからは、〆切という名の死神が近づいてきている。死神が1匹、死神が2匹……(匹でいいのか?)怖すぎて振り向けない。ただ足音だけが響いている。コツ、コツ、ココツ、コツ、ココツ……2匹分が微妙にズレているせいで余計にうるさい。ああ、やめて。せめてどっちかにして……
〆切まではまだ少し時間があるのに、もう胃が痛い。続編を書いて失望されるのも怖いし、〆切も怖い。怖すぎて、もはやどちらがより怖いのかもわからなくなってきている。
早く新しい企みや試みを見つけなければならない。どうしよう。どうやるんだっけ……そうだ、やはり新しい路線のものに挑戦するしかない。新しい路線に全力で取り組めば、きっと続編の活路も見出だせるはずだ……
私は、少しでも成長した未来の自分がどうにかしてくれることを信じて、今、新しい路線であるこのエッセイの原稿を書いている。
[日経ビジネス電子版 2026年2月19日付の記事を転載]