ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:作家が「前の作品よりつまらなかった」と言われても反論できる根拠)は、読者を失望させたくないと思いながら、自分なりの企みと試みを設定して作品を書いているという話でした。今回は、なんと自分の娘に「お母さんの話つまんない」と言われてしまった話です。(編集部より)

娘から突然のチクチク言葉
先日、中学生の娘から「お母さんの話つまんない」と言われた。
何と純然たるチクチク言葉……!(これも娘から聞いて知った話だが、今は「バカ」「黙れ」「キモい」など、言われた側が嫌な気持ちになるものを〈チクチク言葉〉、「ありがとう」「すごいね」「大丈夫?」など、言われると嬉しくなったり安心したりするものを〈ふわふわ言葉〉と呼ぶらしい)
物語を書くことを仕事にしている者としては、チクチクどころかグサグサに刺さる言葉だ。
「……どういうところが?」
と動揺しながら尋ねてみると、「話のテンポが悪くてくどい」とテンポ良く明瞭に答えられた。……ぐう。かろうじてぐうの音は出たので、さらに詳しく訊いてみたところ、娘は「そういうところ」と面倒くさそうに言った。
「お母さんって、すぐに『具体的には?』とか『もっと言語化して』とか言うでしょ。自分が説明するときも、途中で調べたり前置きから入ったり細かい具体例を入れたりするから、話のテンポが悪くなる上に長くなって、しかもすぐに論点がズレていくんだよね」
……今度こそ、ぐうの音も出ない。思い当たる節がありすぎる。
(おそらくこのエッセイ連載を読んでくれている方も娘に同意したことだろう。このエッセイも、私のあちこちに飛びがちな思考をほぼそのままに書き連ねたものであり、つまりがほとんど脱線で構成されている)
たしかに私は、娘から面白い話題を投げかけられると、張り切って全力で答えようとしてしまう。そして、私にとって娘の話はどれも面白いため、毎回はしゃいでしまう(親バカを承知で言うが、娘の視点や考え方は「自分の子どもだから」という欲目なしに面白いのだ。私は彼女とただのクラスメイトとして出会ったとしても、友達になりたいと願ってまとわりついたことだろう)。
たとえば、直近だと「生物の分類法」「ミルグラム実験」「疑似科学」などについて質問されたのだが、自分のあやふやな知識で適当に答えるのが嫌で調べているうちに楽しくなってきて、前のめりになってしまった。娘の見解を聞きたい。できるだけ正確で公正で多角的な情報を伝えた上で、とことん議論したい。
だが、娘からすれば、そこまで本気に議論したいわけではなく、単にちょっと興味を惹かれたから話題にしただけなのである。雑談のつもりで投げかけただけなのに、いちいち議論へ持ち込もうとしてくるのだから、面倒がられても仕方ない(ちなみに、私は娘の話を聞くのが大好きすぎるため、娘から話しかけられたときはいつも娘が飽きるまで会話をやめない。自然と、娘は毎回うんざりした気持ちで会話を終えることになる)。
雑談のやり方がわからない
……これだけなら、単に子どもにウザ絡みをして嫌がられているというだけの話だろう。けれど最近の私は、そもそも雑談なるものをどうすれば上手くやれるのか自体、よくわからなくなってきているのだ。
同じマンションの人とエレベーターで顔を合わせた際、「最近寒くなってきましたねえ」「(連れているワンちゃん)かわいいですねえ」など、ほんの十数秒間を埋める会話をすることくらいは問題ない。
子どもの学校の保護者会でママ友と会って、「〇〇ちゃんって習い事って何かやってる?」「子どもにお小遣いってあげてる?」などと訊かれたりすれば、質問に答えて同じ問いを返すことで会話らしきものを成立させることもかろうじてできる。
ただ、それではランチや飲み会で数時間しゃべりましょう、となると、途端に何を話せばいいのかわからなくなってしまう。
実のところ私は、学生時代に雑談で困ったことはあまりなかった。思い返してみれば、身の回りで行われていた雑談の大半は「悩み相談」の体裁を取っており、ある程度のフォーマットがあったからだ。
悩み相談とは言っても、深刻な打ち明け話とは限らない。愚痴を吐き出したいだけの場合も、ちょっとした情報交換がしたい場合も、「悩み」の形を取りながら自慢話がしたい場合もある。どのケースでも、基本的には相槌(あいづち)を打ちながら共感を示し、意見や情報を請われれば答え、相手が「すごい」と言ってほしそうなら「すごい」と言えばいい。
こうやって言語化すると、マニュアル的にこなしていたように見えるかもしれないが、当時は改めて意識することはなかったし、むしろ自分にとってもそれが自然なコミュニケーションの形だった。「悩み相談」の体で関係を深めていくやり方があまりに身近にありふれていたため、人と仲良くなるには「悩み」を相談するものなのだと、疑問を持つこともなく認識していた気がする。
近しい人と交わされる「悩み」自体も身近な内容なことが多く、共感するのも意見や情報を答えるのも難しくはなかった。私から「相談」を持ちかける際も、本当に悩んでいることや気になっていることをそのまま言葉にすればすんなり共感してもらえ、無理なく会話が続いていた。
だが、専業作家になって数年経つ頃から、雑談に難しさを感じるようになった。
今の私にとって、最も関心があり、悩んだり情報を得たいと思ったりしているのは小説に関することだ。育児や親の介護、健康などについての悩みもあるものの、健康はともかく育児と親の介護に関しては少々ヘヴィな話題を含むこともあって相手や話すシチュエーションを選ぶ。
また、私は編集者や同業者とのやり取りの中で、「悩み相談」の形式を取らず、共感をベースにしないコミュニケーションのやり方があることを知った。
特に私が親しくしている同業者たちは、「悩み」とは関係なく最近読んだ本や観た映画、気になっている時事問題などについて次々に話題にするし、共感を示すような相槌をあまり打たない。「わかる」とうなずくよりも、「それ、どういうこと?」と首を傾げる方が多い。「ん? 今のところよくわからないからもう少し言語化して」と突っ込んできて、こちらが懸命に説明しても「なるほどね。でもやっぱり自分はそう思わないな」と反対意見を口にしたりする。
だから、自然と議論のような形になる。ある議題について、それぞれがどう考えているのかをぶつけ合って、最後まで共感し合えることがなくても誰も気にしない。相手を自分と同じ考えに変えさせたくて話しているわけではないからだ。議論によって知見や視野を広げること自体が楽しいため、共感は必要としていないのである。
「議論型」が可能か見極める
彼らとつき合うようになって、私は自分が共感ベースの会話よりも議論の方が好きな人間なのだと知った。議論は楽しい。自分の狭くて硬直しがちな世界にいくつもの新しい窓が設置されることで、風通しがよくなっていくのを感じる。
ただ、問題は、相手が議論型の会話がしたいとは限らないということだ。共感してほしくて話している相手に反対意見を言えば、相手は自分の感情や思考を否定されたように感じるだろう。相槌や軽い感想だけを求めている相手に全力で議論をふっかけたら、相手はわずらわしく感じるはずだ(娘が私に対してそうだったように)。
つまり、自分の中でコミュニケーションの形式が増えたことによって、それぞれの場の参加者に合った形式を選ばなければならなくなったのだ。
共感型の方が無難ではある。肯定されて腹を立てる人間は少ないし、ネガティブな感情を抱かれたとしても「つまらない」くらいなもので、強い悪意には繋がりにくい。
議論型はリスクが高い。意見が合わないことにストレスを感じる相手だと、明確な敵意を向けられる可能性があるからだ。
その点を考えるなら、基本的には共感型をベースにしてコミュニケーションを取り、相手と距離を縮めていく中で議論をしても大丈夫そうだと見極められたら議論型へ切り替えてみる、というのがベストな方法なのだろう。
「何でわかってるのにできないの」
さて、娘のことを話題にしているため本人にここまでの文章を読んでもらったところ、書くこと自体の了承はもらえたのだが、「何でわかってるのにできないの」と呆れられた。
はい、おっしゃる通り……。そう、頭ではわかっていても実行できないのが、コミュニケーションの難しいところなのである。
娘からは「もっと気楽にできる話題にすればいいでしょ」と言われたが、気楽にできる話題なるものが思いつかない。
たとえば学生時代からの友人と久しぶりに会って「最近どう?」と投げかけることはできても、自分が同じ問いを返されると何をどこまで話せばいいかわからなくなってしまう。小説家という仕事は、勤め人とは勤務形態も抱えている課題も大きく異なるため、共感型の会話にそぐわないのだ。
ママ友との会話では情報交換や愚痴が主になることが多いが、ここでも共感型の会話をしようとすると自分や家族を「落とす」ニュアンスを出さなければならなくなる。「うちの子全然宿題やんないから怒ってばっかで疲れる~」と言われれば、「わかる、うちも全然やんないよ~」と返すのが最適解だからだ。
けれど私は上記の通り親バカなので、子どもを否定することはできるだけ言いたくない。結果として、相手から出された話題に乗っかることはできても、自分から話したいことは特になくなってしまうのである。
ここ数年、「気軽じゃない話題をとことんしたい」という気持ちにしたがって同業者と議論型の会話ばかりしてきたせいで、自分が気軽にはつき合いづらい人間になってきている自覚がある。みんなと楽しく雑談できる自信がないから、昔の友人知人に自分から声をかけることもできずにいる。そして、ますます議論型の会話に偏っていき、さらにつき合いづらい人間になっていっている。完全なる悪循環だ。
もし私の友人知人でこのエッセイを読んでいる人がいたら、ぜひ気軽に飲み会などに誘ってやってほしい。とはいえ、ここまであけすけな話を読んだ上で、それでも遊んでやろうと思ってくれる奇特な人が、どれだけいるかはわからないが……
[日経ビジネス電子版 2026年3月5日付の記事を転載]