3月30日から放送が始まったNHKの連続テレビ小説『風、薫る』。日本の近代看護の礎を築いた⼤関和(ちか)と、鈴⽊雅(まさ)たちをモチーフとしたドラマ。武士の娘だった彼女たちはなぜ、シングルマザーとなった後に看護の道を選んだのか。原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)著者の田中ひかるさんに聞きました。
*本記事では今日では不適切とされる語句や表現がありますが、当時の時代背景を考慮して、そのまま掲載します。

 「ナイチンゲール」「看護師」と聞くと、凜としたたたずまいを思い浮かべる人も多いと思いますが、実は和が生きた明治期、看護婦は卑しい仕事とみなされ、「お金のために命まで差し出す仕事」と思われていました。
 皇族の女性たちや、大河ドラマ『八重の桜』でおなじみの新島八重たちが日本赤十字社の篤志看護婦として活躍し、看護婦のイメージと地位が向上したのは、もう少し後のことです。

田中ひかる(たなか・ひかる)氏
1970年東京都世田谷区生まれ。学習院大学法学部卒業。予備校・高校非常勤講師などを経て、専修大学大学院文学研究科修士課程、横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程に学ぶ。博士(学術)。女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行う。著書に『明治のナイチンゲール 大関和物語』、『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』(いずれも中公文庫)、『生理用品の社会史』(角川ソフィア文庫)など。

「泣キチン蛙」だった大関和

 和は黒羽藩(現・栃木県大田原市)の藩主一門で、家老を務めた大関弾右衛門の娘として生まれました。同じく黒羽藩の家老の息子と結婚して、1男1女をもうけましたが、夫に妾がいたことから4年ほどで離婚し、実家に戻りました。当時の「常識」としてはどんな夫であっても添い遂げるのが通例でした。
 その後、和は上京して英語の習得に励みました。また、夫の妾問題に悩んだことも一因となって「一夫一婦制」を掲げるキリスト教に入信。牧師・植村正久の説得を受け、現在の女子学院中学・高等学校の源流の1つ、桜井女学校附属の看護婦養成所に入学しました。
 当初、和は武家の娘としての誇りがあり、看護婦になることは乗り気ではありませんでしたが、看護はキリスト教の博愛精神に一致すると納得。やがて物語では同志として描いた鈴木雅(すずき・まさ)と出会います。
 その後、帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)で看護実習を受け、近代的な看護学を学んだ日本初の看護婦(トレインド・ナース)の一人となり、同院の看護婦長を務めました。

 こう書くと、和は順調にキャリアを積んだように思えますが、実はかなり無鉄砲というか無計画です。明治時代に女性の側から離婚することは異例なことですし、さらに桜井女学校看護婦養成所に入学したものの、当時はまだ「看護婦」という職業は確立されていませんでした。また、せっかく勤めた帝国大学医科大学附属第一医院の婦長も2年ほどで職を解かれています。
 職を解かれた原因は、看護婦の待遇改善を教授に直接訴え、医師たちの反感を買ったことでした。和は看護婦養成所で「医師と看護の仕事はまったく別である」「医師は一時的な治療を行うが、看護婦は持続的で多様的な仕事をする」というナイチンゲールの考えにもとづく看護学を学んでいますから、医師たちに意見したのでしょう。「男を立てる」のが当たり前であった時代、和は「わきまえない女」だったのです。

 また、感情豊かな人物で、上長に直談判する際も感情がこみあげてくると大泣きしたという史料が残っています。ナイチンゲールをもじった「泣キチン蛙」というあだ名が生まれました。私は最初にこの史料を読んだとき、「いい大人が、上司とのミーティングで泣くのはどうなの?」と、少しあきれましたが、メソメソではなく、しだいに感極まって流した涙だったのだ、と今では共感しています。
 和はいわば中間管理職。男社会の医局で、部下の看護婦たちを守るために、必要とあらば「わきまえず」に発言する。帝国大学医科大学附属第一医院の婦長という名誉を捨て、保身に走らない姿勢は潔いですね。

 和はその後、新潟県で知命堂病院附属産婆看護婦養成所を開き、200人ほどの看護婦を育成しながら、各地で感染症の対策に奔走します。これはそのまま帝国大学医科大学附属第一医院にいたら、なしえない偉業でした。人生に無駄な経験はない、「人のために」という強い気持ちがあれば、道は開けるのだと思わされます。

 余談ですが、和は「人のために」という気持ちが強すぎ、恵まれない人に自分の金品や着物を与えたり、入院費を払ったりしたこともあったそうです。おそらく当時、日本で一番有名な看護婦だったと思いますが、没後には現在価値で約100万円ほどの借金が残り、親族が香典でそれを返済したというエピソードも残っています。

『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著、中公文庫)/画像クリックでAmazonページへ
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夫を亡くした際の後悔から看護婦養成所に入学

 一方、和の同志であった鈴木雅(すずき・まさ)も桜井女学校附属看護婦養成所を卒業後、帝国大学医科大学附属第一医院の婦長となりますが、和が帝国大学医科大学附属第一医院を辞した3カ月後に、自らも退職します。その後は在宅の病人や入院中の患者を看護するための派出看護婦会を設立しました。和が感情豊かなタイプだとしたら、雅は理論的。特に派出看護婦会をつくったときの準備のよさ、手際のよさにそうした一面が表れています。
 ただし、雅は自ら心血を注いで作り上げた組織を和に譲り、43歳で引退してしまいました。引退の理由は謎が多く、息子の病気とも、「看護婦規則」が影響したともいわれています。

 というのは、雅たちの派出看護婦会にならって、全国各地に「看護婦会」が乱立しました。きちんと看護を学んだ雅たちに対し、「大部分は殆ど看護婦の仮名を借るものたるに過ぎず」、という状態だったようです。明治33年(1900)に東京府では、看護婦の職務内容や資格要件などを規定した「看護婦規則」が制定されました。しかし、そこには「不当な謝儀を貪る者」などと看護婦を一律におとしめるような表現がされていました。誰よりもトレインド・ナースとしての自負があった雅は尊厳を傷つけられ、絶望したのかもしれません。

 雅は、京都に移り住みます。その理由は夫と新婚時代に過ごした京都で過ごしたかったからのようです。和と雅は2人ともシングルマザーですが、和は離婚、雅は死別でした。夫の鈴木良光は大隊長として西南戦争に従軍、田原坂の戦いなどに参戦しています。のちに京都の伏見連隊長や戸山学校の教官を経て、明治16年(1883)、仙台で病死しました。
 雅が看護婦を志した理由は「自分に看護の知識があれば、夫をちゃんと看病できたのでは」という後悔の念がありました。桜井女学校附属看護婦養成所に入ったのは28歳の時。当時の感覚ですと中年ですから、その決意の固さが分かります。

 明治という時代は戊辰戦争や西南戦争といった内戦や、その後も日清戦争、日露戦争と戦争がつねに身近にありました。戦争では、戦場で亡くなるよりも、病気になって亡くなる戦病死のほうが多かったのです。そうした中、衛生観念と適切な看病を浸透させた看護婦たちの功績は大きいと思います。
 特別な発明や法制定の立役者ではない彼女たちの働きは、教科書や年表にはほとんど載りません。でも、和や雅たちは、人生の選択肢の乏しい時代に、新たな選択肢を切り開いた人たちです。私たちは日頃、保身に走りがちですが、ときにはおそれずに道を外れてみるのもいい。そこに人生の面白さがあるはずです。

 連続テレビ小説『風、薫る』は1人のドラマファンとして楽しみにしています。和や雅と同時代を生きた、私たちの曽祖父母が病気や戦争で命を落としていたら、私たちはこの世に存在しません。日本の近代看護の礎を築いた2人と、今も現場で働く看護師の皆さんに深く感謝の念を抱きながら、ドラマを見たいと思います。

取材・文/三浦香代子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子