日本企業は長らく「マーケティング志向が弱い」といわれてきた。だが、その言葉はしばしば曖昧なまま使われ、何が課題なのか、どう変えるべきなのかは十分に整理されてこなかった。そうした状況に一石を投じるのが、実務の最前線を知る11人の書き手が、今向き合うべき課題や論点を提示した2026年4月刊行の新著『ザ・マーケティング・イシュー』だ。本記事では、編著者である中央大学名誉教授の田中洋氏に、本書を企画した背景やそこに込めた問題意識を聞いた。[日経クロストレンド 2026年4月21日付の記事を転載]

田中洋氏
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田中 洋(たなか ひろし)氏
中央大学 名誉教授/東京大学講師/事業構想大学院大学客員教授
京都大学博士(経済学)。電通 マーケティング・ディレクター、法政大学経営学部教授、米コロンビア大学客員研究員、中央大学大学院戦略経営研究科教授、日本マーケティング学会会長、日本消費者行動研究学会会長などを歴任。ブランド戦略論・消費者行動論・マーケティング戦略論・広告論専攻。小田急エージェンシー、コレクシア マーケティングアドバイザー。主著に『ブランド戦略論』(有斐閣)がある

マーケティングがいまだ共通言語になっていない

まず、本書を企画されたきっかけについて教えてください。

田中洋氏(以下、田中) 根底にあったのは、日本企業全般において、マーケティング志向やマーケティングへの意識がまだ十分に根付いていないのではないか、という問題意識です。これは今に始まった話ではありません。私が電通でマーケティングの実務に携わっていた30年ほど前から、外資系企業との仕事に関わる中で、ずっと感じてきたことでした。

 食品、製薬、金融、トイレタリーと業種が違っても、グローバル企業ではマーケティングが共通言語になっています。組織の中で、同じ前提や考え方を共有しながら議論できる状態ができているわけです。ところが日本企業では、企業ごとに独自の考え方はあっても、「マーケティング」が共通言語として組織内に浸透しているとは言い難い。大学で教えるようになってからも、その状況は大きく変わっていないと感じてきました。

 一方で、「日本企業はマーケティングが弱い」という指摘は、今に始まった話ではありません。どこがどう弱いのか、あるいはなぜ弱いのか、それらが整理されないままでは、解決に向けて動くことができません。本書ではそうした点を少しでも明確にしたいという思いがありました。

その問題意識を、今回どのように書籍へと落とし込んでいったのでしょうか。

田中 本書の特徴は、現在マーケティングの世界で活躍している10人のエキスパートに声をかけて分担執筆した点です。実務の現場を長く見てきた方々は、それぞれ鋭い問題意識を持っています。その知見を一冊に束ねることで、日本のマーケティングが抱える課題を立体的に示せるのではないかと考えました。

 私は研究者ですが、実務家の方々とも幅広く交流の機会を持ってきました。あるときふと、「この人たちをつなげたら、何か面白いことができるのではないか」と気付いたのです。そのネットワークを生かして、タイトルが示す通り「そもそも何がイシューなのか」を正面から問い直す本としました。

 章立てや執筆陣については、基本的にはそれぞれの専門分野を軸に組み立てています。メディアとコミュニケーション、顧客分析、BtoB(企業間取引)といった区分も、各執筆者の強みから自然に定まっていった部分が大きいですね。一方で、グローバルのように「ぜひこの論点を入れたい」と考えてテーマを立て、書き手を探した章もありました。これまで味の素フーズ・ノースアメリカ社の社長を務められ、この4月から味の素の代表執行役副社長となられた下保寛さんがそうです。

 結果として、実務の現場に深く関わってきた書き手が、それぞれの領域から問題を照らす構成になったと思います。

長期的な視野がもたらしてくれるもの

本書は「短期的視点だけでなく長期的な視野でも考える」ことを重視しています。マーケティングは短期の成果やトレンドのキャッチアップが重視されやすい領域ですが、長期的な視野を持つことの重要性をどのように考えていますか。

田中 おっしゃる通りで、マーケティングの世界にはどうしても短期志向が入り込みやすい面があります。最近でいえばAI(人工知能)が典型ですが、技術の進化が速いため、昨日まで有効とされていたことが、今日はもう古いということも珍しくありません。そういうテーマに対応していくことは重要ですし、スピード感が求められる場面も多いでしょう。

 一方で、そもそもマーケティングの課題は、短期間で片づくものばかりではありません。むしろ、企業の中で本当に重要な問題ほど、ある程度の時間をかけて取り組まなければ解決できないケースが多いものです。ですから本書も、目先の対応だけでなく、「自社は今、何に向き合うべきなのか」に気付き、そこから組織的な取り組みへとつなげていくためのガイドブックのような役割を持たせたいと考えました。

確かに、本書で提示されているイシューやその解決策は、ある程度腰を据えて取り組まなければならない類いのものだと感じました。

田中 すぐに効果が見える施策には魅力があります。けれども、「すぐ役に立つ」ものほど、落とし穴があるかもしれないと疑ってかかったほうがいい場合もあります。

 それを象徴するのが、1980年代のプロモーション重視の流れです。当時は、値引きやおまけなどの販促施策が非常に有効だと広く考えられていました。実際、短期的には売り上げに効くので、多くの企業が熱心に取り組みました。ところが、そうした施策を重ねるうちに、「気付いたらブランドが傷んでいた」という事態が起きた。そこから1990年代以降、改めてブランドエクイティの重要性が注目されるようになっていったのです。

デジタルやAIの活用など、あまりにも動きが速いため、実務の現場では目先の課題をキャッチアップするだけでも精いっぱいです。解決策があれば、すぐ飛び付きたくなるのも無理はありません。

田中 もちろん即効性のある施策自体が悪いわけではありません。それだけに寄りかかると、企業やブランドの土台を弱くしてしまう側面もあるということです。本書が長期的な視野を重視しているのは、そうした落とし穴の存在を常に意識してもらうためでもあります。

 では、中長期的な問題に向き合うときに何が必要かというと、私はやはり「考え方」だと思います。個別の手法やテクニックは環境とともに変わっていきますが、問題をどう捉え、どう整理し、どう解決へ向かうかという思考の枠組みは、そう簡単には古びたりはしません。

 実際、私が10年以上前に執筆したマーケティングリサーチの本は、今なお読まれています。それは、調査の技法を並べた本ではなく、現実の問題をどう見立て、どう調査に落とし込むかという考え方を書いた本だったからです。今回の本も同じように、10年間にわたって読まれるものにしようと意識しました。

マーケティングの「思想そのもの」が問い直される時代へ

先ほど、プロモーション重視からブランディングへの注目という変化の流れについてお話しいただきました。そのようなマーケティングの大局に関して、現在、変化を感じていることはありますか。

田中 デジタルやAIの進展だけを見ると、マーケティングは大きく変わったように見えます。実際、現場で使われる技法やツールはこの十数年で大きく様変わりしましたし、2020年代に入って変化のスピードはさらに速くなっています。先ほども言いましたが、昨日まで新しかったものが、今日はもう古い、ということも珍しくありません。

 ただ、その一方で、マーケティングの根本にある考え方は、実はそれほど変わっていないとも感じています。例えばフィリップ・コトラーに代表される伝統的なマーケティングの枠組みは、今もなお教科書的な基盤として強い影響力を持っています。版を重ねた最新版を見ても、細かな更新はあるのですが、根本の構造は大きくは変わっていません。

 ただ、私はそこに少し疑問も感じています。表面的な環境は大きく変化しているのに、その土台にある考え方は本当にそのままでいいのか、ということです。

 近年は、そうした従来のマーケティング観に対して、異なる角度から問い直す動きも少しずつ出てきています。本書でも、例えば『戦略ごっこ―マーケティング以前の問題』の著者であるコレクシアの芹澤連さんが担当された第2章のエビデンスベーストマーケティングの議論は、その一つだと思います。従来は当然視されてきた差別化やブランドの捉え方についても、「それは本当に実証的に裏付けられているのか」と問い直そうとしているわけです。

 私自身、東京大学での講義で伝統的なマーケティング理論を教える一方で、それに対する別の考え方も併せて紹介しています。セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニングといった枠組みは重要ですが、それだけが唯一の正解ではありません。スタートアップの世界で知られる「エフェクチュエーション」のように、教科書通りに市場を分析してから動くのではなく、手元にある資源や偶然性を生かしながら進んでいく考え方もあります。従来のマーケティングとはかなり発想が異なりますが、こうした視点が最近徐々に出始めていると感じます。

田中氏
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伝統的な枠組みが依然として影響を持つ一方、新しい発想も出てきているのですね。

田中 はい。つまり、今起こっている変化は二重構造だといえるかもしれません。表層ではデジタルやAIによって技法が大きく変わっている。けれども深層では、なお伝統的な理論が強く残っている。そして近年は、その深層部分に対しても見直しの動きが出始めているのです。

 2020年代のマーケティングは、技法の更新だけでなく、思想そのものを問い直す局面に入りつつある。そう考えると、とても面白い時代に入ってきたのだと思います。

正解が一つではない時代、マーケターに求められる姿勢とは

そうしたトレンドを受けて、実務に向き合うマーケターはどのように仕事に臨めばよいでしょうか。

田中 実務の現場で難しいのは、新しい考え方を知ったからといって、それをそのまま会社の中で実装できるわけではないということです。例えば、エビデンスベーストマーケティングやエフェクチュエーションのような議論は非常に示唆的ですが、企業の現場、特に大企業では、「このプロジェクトの目的は何か」「ターゲットは誰か」「ポジショニングはどうするのか」といった形で、従来型の説明を求められる場面が依然として多いのではないでしょうか。理論として新しいものが魅力的でも、それだけですべてがうまくいくわけではありません。

 先ほどお話しした新旧の流れを、私は大別して「構成的アプローチ」と「非構成的アプローチ」と呼んでいます。コトラーたちのように、計画的に市場を捉え、戦略を組み立てる考え方が構成的アプローチ、これに対してエビデンスベーストマーケティングや、エフェクチュエーションといった、偶発的で非線形な進み方は、非構成的アプローチです。現時点では「これさえやればいい」という万能な解はありません。だからこそ、多様な考え方を摂取し、それを自社の文脈に応じて応用していく姿勢が求められるのでしょう。

 手法やフレームワークの背後にある発想に注目してみるのもいいと思います。一見最新のマーケティングに見えるものが、実は古典的な理論に基づいていることも少なくありません。みなさんご存じのマーケティングファネルという考え方はデジタルマーケティングでよく使われますが、その根本にあるのはAIDMA(注意・関心・欲求・記憶・行動)やAISAS(注意・関心・検索・行動・共有)といった古典的な線形モデルです。理論的には単純化し過ぎている面もあるのですが、実務上のプランニングツールとしては依然使われています。

実践的なゲートウェイとしての一冊に

完成した本書を通読されて、どのような感想を持ちましたか。

田中 改めて感じたのは、本書が各領域の“入り口”として機能する一冊になったということです。著者はコンサルティングやアドバイザリーの経験を通じて、様々な実践をしてきた方々です。その問題意識の凝縮されたところがぐっと詰まっていますので、これを読んでいただくと、11人分のマーケティングの知恵がいっぺんに手に入るわけです。そして、特定の領域についてさらに深く知りたい場合は、それぞれの著者の本へと進んでいける。本書は日本のマーケティング課題を考えるための、実践的なゲートウェイになったのではないかと思っています。

最後に、本書をどのような方に手に取ってほしいとお考えですか。

田中 本書はマーケティングの重いテーマを掘り下げていますが、現場経験が豊富な人だけに向けた本ではありません。むしろ私は、マーケティング業務にまだ本格的に携わっていない人や、あるいは今後マーケティングに関わってみたいと思っている人にこそ手に取ってもらいたいと考えています。そうした人であれば、「マーケティングの世界には、こんなに多様な問題があるのか」と、実情を知る入り口として使っていただけるはずです。

 体系的な教科書とは少し違うかもしれませんが、今何が問題になっていて、どこに論点があるのかを知るには適した一冊です。全体像をつかんだ上で、さらに個別テーマを深掘りしていく。その出発点として、本書が機能してくれればうれしいですね。

(次回に続く)

次回は田中氏が今回の書籍で担当した、厳しい目が向けられることもあるCMO(最高マーケティング責任者)の役割や存在意義について語っていただく
次回は田中氏が今回の書籍で担当した、厳しい目が向けられることもあるCMO(最高マーケティング責任者)の役割や存在意義について語っていただく
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(写真/村田和聡)

日本のマーケティング界で活躍するエキスパート11人が、実務の最前線で避けては通れない「重大な課題(イシュー)」を明らかにし、その解決策を提示する。編著者は日本マーケティング学会の元会長で、ブランディングの研究の第一人者でもある中央大学名誉教授・東京大学講師の田中洋氏。

田中洋 編著/日経BP/3850円(税込み)