ライフネット生命保険創業者で、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授の出口治明氏は、大の本好き、歴史好きとして知られ、歴史に関する著作も多い。好評を博した『一気読み世界史』に続き、このたび『一気読み日本史』を刊行した。出口氏による日本史講義を、書籍から抜粋して、お届けする。今回は、豊臣家が滅亡した理由と徳川家康の幸運。家康には、当初、豊臣家を滅ぼすつもりはなかったが、ある出来事がきっかけで気が変わったという。

 関ヶ原の戦いから3年後の1603年、徳川家康は、右大臣になると同時に、征夷大将軍に就任します。江戸幕府の誕生です。

 徳川家康はとうとう天下人になりました。

 しかし、このとき、豊臣秀吉の子の豊臣秀頼も健在でした。秀頼は内大臣で、朝廷では、右大臣の家康に次ぐ高い地位にあります。

 それから2年後の1605年、家康は子の徳川秀忠に将軍職を譲りました。徳川政権が続くことを、天下に示したわけです。

 一方で、家康は、このとき、右大臣の座を豊臣秀頼に譲っています。将軍の秀忠は右大臣より格下の内大臣です。この時点では、家康には、豊臣家を滅ぼすつもりはなかったのでしょう。秀頼が、父の秀吉の後を継いで関白になる可能性も十分あったと思います。

 そんな家康の気が変わったのは、1611年、19歳になった秀頼と二条城で会見したときでしょう。

なぜ家康は、秀頼に難くせをつけたのか?

 「どうせお坊ちゃん育ちやろ」と侮っていた秀頼が結構、賢いことがわかったのです。当時は豊臣氏にシンパシーを感じる大名たちもいて、「これは潰しておかんとあかん」となった、と見る向きもあります。

 家康は、豊臣家に難くせをつけます。豊臣家の氏寺である方広寺の鐘の銘文が「国家安康」となっているのが、けしからんというのです。「家康の名前を2つに割いて、呪っているんやないか」と。これをきっかけに1614年、大坂冬の陣が勃発します。翌1615年の大坂夏の陣で敗れた豊臣家は、滅びました。

 徳川家康は、幸運に恵まれた人でした。

 まず、生まれたタイミングが幸運でした。家康は1542年生まれ。織田信長が1534年生まれ、豊臣秀吉が1537年生まれ、前田利家が1538年生まれで、ライバルのなかで一番若かったのです。

 1560年の桶狭間の戦いも、幸運でした。

 家康は、三河(愛知東部)岡崎の松平氏の家に生まれました。松平家は弱小領主でしたから、家康は、駿府(静岡東部)の有力大名、今川氏の配下で活動することになりました。今川氏と織田氏が戦った桶狭間でも、今川軍の先鋒として出陣します。ところが、ここで大将の今川義元が討たれてしまい、本拠地の岡崎城に帰ります。ここから今川氏に見切りをつけて、織田氏に近づき、信長と清須同盟を結びます。この清須同盟が、その後の飛躍のきっかけとなります。

 家康は、分裂していた三河を統一すると、今川領だった遠江(静岡西部)に侵入。三河の岡崎から浜松に居城を移します。そんな家康に最大の危機が訪れたのは、1572 年。甲斐(山梨)の武田信玄に、三方ヶ原の戦いでコテンパンにやられて、遠江どころか、三河も危うくなります。ところが、このとき信玄が陣中で病死します。やはり幸運ですね。

「幸運な家康」の最大の転機とは

 それから10 年がたち、信長と家康で武田氏を滅ぼします。その直後に本能寺の変で信長が死去。この混乱を突いて家康は、武田の旧領を分捕り、150万石を領有する有力大名にジャンプアップします。

 その後、家康は、羽柴(豊臣)秀吉に臣従しました。1590 年、秀吉が北条氏を滅ぼすと、北条氏のいた関東に移されます。このとき、家康は、150 万石から250 万石に加増され、またジャンプアップします。豊臣政権下で最大の有力大名になりました。

 秀吉がなぜ、家康をこれほど特別扱いしたのかというと、家康を鎌倉公方のような位置づけにしたかったのだと思います。鎌倉幕府室町幕府も、京都と鎌倉の二極体制でした。それと同じような青写真を、秀吉は描いていたのではないでしょうか。

 そして、1598年に秀吉が死去した後、最後に天下人に納まったのは、家康でした。

 徳川家康の人生にはさまざまな幸運がありましたが、一番の転機は、今川義元を見切って、織田信長と清須同盟を結んだことでしょう。

 実のところ、家康には、信長との同盟関係をずっと大事に守っていくつもりはなかった気がします。

立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授。ライフネット生命保険創業者。1948年、三重県美杉村生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などをへて2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名変更。2012年、上場。2018年1月より立命館アジア太平洋大学(APU)学長。2024年1月より現職。『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『人類5000年史』シリーズ(ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文藝春秋)、『全世界史(上・下)』(新潮文庫)、『一気読み世界史』(日経BP)など著書多数。(写真=栗原克己)
立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授。ライフネット生命保険創業者。1948年、三重県美杉村生まれ。1972年、京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などをへて2006年退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年、ライフネット生命保険株式会社に社名変更。2012年、上場。2018年1月より立命館アジア太平洋大学(APU)学長。2024年1月より現職。『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『人類5000年史』シリーズ(ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文藝春秋)、『全世界史(上・下)』(新潮文庫)、『一気読み世界史』(日経BP)など著書多数。(写真=栗原克己)

 信長と同盟を結んだといっても、当時、家康は三河岡崎の小領主でした。対する信長は、曲がりなりにも戦国大名ですから、家康は舎弟でしかありません。

 でも、親分の信長がどんどん大きくなっていくので、家康はついていくしかなかったわけです。

家康は「仁義を重んじない普通の戦国大名」

 けれど、ほかの大名たちとの関係に目を転じれば、家康は、武田氏と結んでみたり、北条氏と結んでみたり、同盟相手をよく変えていて、仁義を守るタイプではありません。秀吉の命令も、秀吉が死んだらすぐ破ろうとしていました。

 家康は、自分が有利になるように動くという、戦国大名としては、ごく普通の感覚の持ち主だったと思います。そこに幸運が重なり、天下人に納まった、というわけです。

 信長や秀吉より若かったのも幸運なら、長生きしたのも、家康の幸運でした。1615 年の大坂冬夏の陣で豊臣家を滅ぼすと、翌1616年、家康は75歳で死去しました。

日経ビジネス電子版 2025年12月29日付の記事を転載]

宇宙の起源から日本の歴史を8時間で一気読み。大きな世界につながる、私たち「日本人の物語」。一気に読むから、流れがわかり、教養になる。古代中国の大帝国と激突した「白村江ショック」に、欧州勢を呼び寄せた戦国時代の「銀バブル」、ペリー来航に始まる米国との対峙など、大国の狭間で生きてきた日本人の歴史に、現代に通じるヒントを探ります。

出口治明著/日経BP/2200円(税込み)