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教科書は間違いだったの?琉球王国の暮らしぶりは/下

琉球王国時代に王府が置かれた首里から望む那覇の街並み=那覇市首里当蔵町3で2022年10月11日午後4時5分、比嘉洋撮影
琉球王国時代に王府が置かれた首里から望む那覇の街並み=那覇市首里当蔵町3で2022年10月11日午後4時5分、比嘉洋撮影

 琉球王国の庶民はどんな暮らしぶりだったのでしょうか。前回のコラム(10月14日配信)では、教科書にも登場する琉球王国が海洋貿易で栄えた時代は、450年以上続いた王国の長い歴史の中で15世紀半ばまでの50年間ほどに限られる、との見方を紹介しました。貿易がもたらす富は国中に行き渡らなかったのか。沖縄の先人たちの暮らしを今回も沖縄国際大名誉教授の来間(くりま)泰男さん(81)とともに見ていきましょう。【那覇支局・比嘉洋】

 まず、琉球王国の経済力はどの程度だったのか。1609年、琉球は薩摩藩の侵攻を受け、武力で徳川幕府の支配体制に組み込まれた。薩摩はさっそく翌年から王国の農業生産力を測る「検地」を実施。総石高は約9万石とされた。中規模の藩に相当するが、当時の琉球は肥料を使わない原始的な農業が一般的だったため、本来なら米1石を収穫する1反(約10アール)当たりの収穫量は0・3石ほどにとどまったとする研究もある。となると、「9万石」という計算は実際を上回っていた可能性がある。来間さんの解説によると、大豆やアワ、黒糖など米以外の作物の石高への換算比率も「いいかげん」だった。琉球では「石高制」はとっておらず、薩摩が王国に課す租税の目安とされただけだったようだ。

 薩摩は琉球を介した中国との貿易を続けるため、侵攻後も王国を存続させ、社会の仕組みは変えなかった。幕藩体制下の日本では、村や農家1戸ごとに石高が細かく定められ、農民は石高に基づいて収穫の一部を年貢として納め、治水工事などの労役を担った。一方、琉球では年貢を農家ごとに取り立てるのではなく、現在の市町村に当たる「間切(まぎり)」など一定の地域単位で納めさせた。王国の人口は当時10万~30万人前後と推定されており、その大半が暮らす農村は基本的に自給自足社会で、土地は村人同士で融通し合った。…

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