84年前の12月8日、大日本帝国は米英などとの戦争を始めた。
国力ではるかに勝る相手との「終戦構想」が、願望の上に空想を重ねたようなものだったことは、2024年6月2日配信の記事<「むちゃくちゃな話だった」 蜃気楼のような大日本帝国「終戦構想」>で書いた。
今回は「構想」の実現が不可能になった後、為政者たちがどうやって戦争を終わらせようとしたのかを振り返る。「新しい戦争」の可能性が指摘される「戦後80年」の今、学ぶところが多いはずだ。
終戦1年前には敗戦が決定的に
1941年の開戦後、日本軍は陸海ともに勝利を重ねた。しかし、米軍は戦時体制を整えて本格的な反攻を始め、日本軍は次第に劣勢になった。
敗戦が決定的になったのは44年7月。米軍がマリアナ諸島のサイパンを占領し、ここを基地として、新鋭の大型爆撃機B29で日本本土を爆撃することが可能になった。
敗戦までに本土の多くの都市が焼け野原になった。死者は50万人に及ぶとされる。
実現しなかった「一撃」
それでも政府は戦争を続けた。局地的に連合国軍に勝利し、その戦果をもって有利な条件で講和する「一撃講和論」を軍幹部が唱え、昭和天皇も同意した。
だが圧倒的に戦力が勝る連合国軍に「一撃」できるとは限らない。実現したとしても相手が和平交渉に応じる保証はない。
開戦時と同じく、ここでも「起きてほしいことだけを前提にして都合の悪い可能性は無視する」という「国策決定」がなされた。
45年4月1日、沖縄本島に米軍が上陸した。日本軍守備隊は激しく戦ったが、6月23日に組織的戦闘は終結し、米軍に占領された。「一撃」は実現しなかった。
同盟国のイタリアはすでに降伏し、頼みのドイツも敗れていた。この時点で敗戦を受け入れていれば、原爆投下やシベリア抑留はなかった。
仮想敵国だったソ連
帝国の為政者たちは別の「終戦構想」を進めようとした。ソ連に仲介役になってもらい連合国との講和を進めるという内容だ。
ソ連は45年4月、日本との間で4年前に結んだ中立条約を延長しないと通告した。条約はその後1年は有効だったが、日本が長年仮想敵国としてきたソ連が、それを守るとは限らなかった。
ソ連との交渉役として広田弘毅が選ばれた。駐ソ大使や首相などを歴任し、「ソ連通」として知られた広田は45年6月3、4日、神奈川県の箱根・強羅で駐日ソ連大使マリクと会談した。
だが、…
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