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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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セーターが語る「苦しみ」 被爆者援護法ない時代、編み物で生計

渡辺千恵子さんが編んだセーター=長崎市岡町で2026年4月9日午後2時6分、尾形有菜撮影 拡大
渡辺千恵子さんが編んだセーター=長崎市岡町で2026年4月9日午後2時6分、尾形有菜撮影

 長崎で被爆して下半身の自由を失いながら、被爆者運動に尽力した渡辺千恵子さん(1993年に64歳で死去)の編んだセーターが見つかった。被爆者の援護施策がない時代に、編み物を売るなどして生計を立てた渡辺さん。「どんな思いで編んでいたのか想像してほしい」。親交のあった知人がそう話すセーターは、長崎原爆被災者協議会(被災協)の事務所の地下講堂に常設展示される。【尾形有菜】

 渡辺さんは16歳の時に学徒動員先の工場(爆心地の南約2・8キロ)で被爆。鉄骨のはりの下敷きになり脊髄(せきずい)損傷の大けがをした。54年ごろから、母が買った家庭用編み機で編み物を始めた。56年には長崎市であった第2回原水爆禁止世界大会で母に抱きかかえられて登壇し、「二度と私をつくらないで」と訴えた。

 渡辺さんのおいの宣博さん(71)は長崎市内で渡辺さんと暮らし、編み物を手伝ったことがある。「(渡辺さんは)長時間座ることができなかったので、休み休み一生懸命作っていた。被爆者が手に職を付けようと頑張っていた時代だった」と振り返る。

 渡辺さんが副会長を務めた「長崎原爆青年乙女の会」では、ほかの被爆者のメンバーも将来への不安から編み物を習い、セーターなどを売って治療費などに充てていたという。

1950年代に撮影された、編みものをする渡辺千恵子さん(右)=長崎総合科学大長崎平和文化研究所提供 拡大
1950年代に撮影された、編みものをする渡辺千恵子さん(右)=長崎総合科学大長崎平和文化研究所提供

 セーターを大切に持っていたのは、元NBC長崎放送アナウンサー、平野妙子さん(72)。仕事の傍ら、参加した平和活動で渡辺さんと知り合い、渡辺さんの自宅によく遊びに行っていた。80年代、会社の先輩が持っていたセーターの柄を気に入り、「同じものを作ってほしい」と渡辺さんに依頼。赤が印象的なセーターを作ってもらった。

 渡辺さんが亡くなった翌年の94年、被爆者への援護策を定めた「被爆者援護法」が成立。「援護法もなく苦労した時期の渡辺さんが、どんな思いだったのか。セーターが代わりに伝えてほしい」。平野さんは今月9日、被災協に託した。

 被災協の横山照子副会長(84)は「デザインが素晴らしく、千恵子さんの感性の豊かさが表れている。原爆で不自由になった体で全国各地に足を運んで被爆体験を語っていたが、そのために編み物をしていた。その姿を伝えたい」と語った。

 被災協は今年6月で結成70年を迎えるのに合わせ、長崎市岡町で事務所としている地下講堂で被爆者運動の歴史を紹介するため、展示物を募集している。問い合わせは被災協のボランティアの畠山博幸さん(090・7736・1765)。

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