母親が亡くなる時、4歳の妹は母の死を怖がり、呼んでも近づこうとしなかった。
「ああ、死ぬんだな」。7歳だった少女は死の床にある母親を見つめながらそう思った。「母親が死ぬ」とはどういうことなのか、まだ理解できていなかった。
1951年1月。広島への原爆投下から5年5カ月がたっていた。
原爆から生き延びたのに全身のだるさに苦しみ続け、母は29歳の若さでおなかの子とともに亡くなった。
核の脅威が高まる今こそ、人間らしく生きる権利を奪う核兵器の罪深さを知ってほしい。
2歳の時に広島で被爆し、7歳で母親を亡くした山下しのぶさん(83)=大阪府寝屋川市=が27日から米ニューヨークで始まる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米する。
覚えているのは、一つだけ
「原爆が落ちた前後のことは何も覚えていないんです」。そう言って、山下さんは後になって聞いたという体験を語ってくれた。
45年8月6日午前8時15分、山下さんは広島市段原東浦町(現南区)の自宅前で、1人で手押し車で遊んでいた。爆心地から約2キロ。
猛烈な爆風で小さな体は玄関の中まで吹き飛ばされた。出勤前で自宅にいた父の西川秀春さんが玄関に走ってきた直後、屋根が崩れ落ちたが、隙間(すきま)に入り、2人にけがはなかった。
一つだけ覚えているのは、裏庭で洗濯をしていた母照子さんの目が腫れ上がり、自宅前の防火水槽の水で冷やしていた姿だ。
倒壊した自宅に挟まれ、顔を打撲したとみられ、あごには木切れが刺さっていたという。あごの傷は亡くなるまで残っていた。
死因は「原爆病」
被爆後、照子さんは何をするにもしんどそうだった。大工だった秀春さんが戦後、出稼ぎで家を空けたため、内職をしながら山下さんと被爆翌年に生まれた妹を育ててくれた。
「いつも体の『あっちが悪い、こっちが悪い』と言っていたけど、寝込むひまもなさそうだった」。亡くなった時、広島市の職員に死因を「原爆病」にするよう言われたという。
照子さんはこの時、妊娠8カ月だった。…
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