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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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83歳がNYで「一歩」へ 折り鳩に込める希望と原爆の理不尽

折り紙で折ったハトを手にする山下しのぶさん(左)と今井セイ子さん=大阪府寝屋川市で2026年4月18日、川平愛撮影
折り紙で折ったハトを手にする山下しのぶさん(左)と今井セイ子さん=大阪府寝屋川市で2026年4月18日、川平愛撮影

 母親が亡くなる時、4歳の妹は母の死を怖がり、呼んでも近づこうとしなかった。

 「ああ、死ぬんだな」。7歳だった少女は死の床にある母親を見つめながらそう思った。「母親が死ぬ」とはどういうことなのか、まだ理解できていなかった。

 1951年1月。広島への原爆投下から5年5カ月がたっていた。

 原爆から生き延びたのに全身のだるさに苦しみ続け、母は29歳の若さでおなかの子とともに亡くなった。

 核の脅威が高まる今こそ、人間らしく生きる権利を奪う核兵器の罪深さを知ってほしい。

 2歳の時に広島で被爆し、7歳で母親を亡くした山下しのぶさん(83)=大阪府寝屋川市=が27日から米ニューヨークで始まる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米する。

覚えているのは、一つだけ

 「原爆が落ちた前後のことは何も覚えていないんです」。そう言って、山下さんは後になって聞いたという体験を語ってくれた。

 45年8月6日午前8時15分、山下さんは広島市段原東浦町(現南区)の自宅前で、1人で手押し車で遊んでいた。爆心地から約2キロ。

 猛烈な爆風で小さな体は玄関の中まで吹き飛ばされた。出勤前で自宅にいた父の西川秀春さんが玄関に走ってきた直後、屋根が崩れ落ちたが、隙間(すきま)に入り、2人にけがはなかった。

 一つだけ覚えているのは、裏庭で洗濯をしていた母照子さんの目が腫れ上がり、自宅前の防火水槽の水で冷やしていた姿だ。

 倒壊した自宅に挟まれ、顔を打撲したとみられ、あごには木切れが刺さっていたという。あごの傷は亡くなるまで残っていた。

死因は「原爆病」

 被爆後、照子さんは何をするにもしんどそうだった。大工だった秀春さんが戦後、出稼ぎで家を空けたため、内職をしながら山下さんと被爆翌年に生まれた妹を育ててくれた。

 「いつも体の『あっちが悪い、こっちが悪い』と言っていたけど、寝込むひまもなさそうだった」。亡くなった時、広島市の職員に死因を「原爆病」にするよう言われたという。

 照子さんはこの時、妊娠8カ月だった。…

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