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植田日銀の慎重な「政策転換」34年前の“教訓”に学んだ?

今沢真・客員編集委員
記者会見でマイナス金利政策の解除を発表する日銀の植田和男総裁=東京都中央区の日銀本店で2024年3月19日午後3時55分、渡部直樹撮影
記者会見でマイナス金利政策の解除を発表する日銀の植田和男総裁=東京都中央区の日銀本店で2024年3月19日午後3時55分、渡部直樹撮影

34年前の取材ノート(3)

 今の株価高騰と、1989年のバブル期の株価高騰は似たところがある。日銀が異例の金融緩和を長く続けた後に、株価が急上昇したことだ。ただし金融緩和から転換する際の、日銀の取り組み方は大きく異なる。日銀は11年近く続けた「異次元緩和」に終止符を打ち、「マイナス金利解除」を決定した。34年前の日銀の金融政策と比較し、共通点と異なる点を探る。

株価1万2000円台から上昇

 まず、直近の11年間の金融政策と株価の軌跡をたどる。日銀は2013年4月、当時の黒田東彦総裁の主導で「異次元の金融緩和」を決定した。「2%の物価上昇」を目標に大量の資金を金融市場に供給し、上場投資信託(ETF)の大幅な買い増しも決めた。決定前日の日経平均株価は1万2000円台。今の3分の1以下だった。株式市場に上昇ムードが広がり、同年末には1万6000円台をつけた。

 異次元緩和で円安が進み、企業業績は急伸した。物価目標は2年で達成するとしていたが、目標に届かず、日銀は大量の資金供給を続けた。緩和マネーに支えられ株価は15年に2万円台、21年に一時3万円台をつけ着実に回復していく。

 23年4月、日銀総裁は植田和男氏に交代した。物価上昇率は目標を超えていたが、政策の急転換には慎重姿勢をとり、異次元緩和の枠組みを続けた。植田氏の総裁就任直前の日経平均株価は2万7000円台だったが、年末には3万3000円台に上昇した。

 年末年始をはさみ「マイナス金利解除」が取り沙汰された。日銀は解除を模索する一方で、解除後も緩和的な金利を維持する姿勢を明確にし、市場に安心感を与えた。年明け後、株価上昇に拍車がかかり、2月に史上最高値を更新し、3月には初の4万円台に乗せた。

34年前も「異例の金融緩和」後の高値

 一方、34年前の金融政策と株価の関係を振り返る。89年の年明け、日経平均株価は3万円を超えた水準だった。日銀の政策金利は当時「公定歩合」で、87年2月から89年5月まで2年3カ月間、史上最低の2.5%に据え置かれた。緩和マネーが流れ込んだ地価と株価の高騰が目立っていた。

 86年10月の時点で日銀幹部が「インフレの芽が育っている。乾いた薪(まき)の上にいるようなもの」と国会で危機感を訴えた。ところが「円高不況は深刻」「金融緩和で内需を刺激すべきだ」との声が強く、政策転換は後手に回った。

 日銀はようやく89年5月、10月の2度にわたり利上げ(公定歩合引き上げ)をした。だが、地価も株価もすでにバブルの状況だった。

 私が証券担当記者だったのは89年11月からだ。株価は高値更新を続け、日銀は水面下で第3次利上げを模索していた。当時の取材ノートには「この先0.5%くらいの利上げがあっても株価に織…

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客員編集委員

 1983年毎日新聞入社。89年経済部。日銀・財研キャップ、副部長を経て論説委員(財政担当)。15年経済プレミア編集長。24年6月退職し、客員編集委員。16年に出版した「東芝 不正会計 底なしの闇」(毎日新聞出版)がビジネス部門ベストセラーに。ほかに「東芝 終わりなき危機」「日産、神戸製鋼は何を間違えたのか」など。16~18年度城西大非常勤講師。