大学は前期の授業が終わり、期末試験のシーズンを迎えました。
学生さんにとって試験は、合否が最大の関心事でしょう。一方、教員にとっては授業がどれぐらい教育効果を上げているのかを知る、重要な機会です。そのような意味で試験では教員も「試されている」といえるかもしれません。
私は、鍼灸(しんきゅう)の基礎となる知識を学ぶ「東洋医学概論」という科目を担当しています。東洋医学には独特の論理と概念があり、理解のハードルが高くなりますが、何より大変なのが漢字です。そんな中、学生さんはよくついてきてくれたと思います。
一方で、それほど難解ではないはずなのに意外に誤答が多いなと感じたのは、病における「標」と「本」の区別です。
「標」とは病気の主な症状のことで、患者さんに感知されやすい、病が表に現れた部分を指します。「本」とは字のごとく、病気の本質のことで、病の根本的原因の部分を意味します。
例えば、頭痛や下痢になやんでいる人がいたとします。
薬局で市販の鎮痛剤や下痢止めを買い求め、それで治ってしまえば問題ないのですが、完治しない場合は医療機関にかかることになるでしょう。そこで、医者がまた痛み止めや下痢止めを処方して事を済ましてしまっていては、患者さんがガッカリ失望してしまうかもしれません。
症状だけを消す薬による治療を一旦は試みて失敗している患者さんは、どうしてこのような症状に悩まされているのか、まずその原因を理解したいと思うのではないでしょうか。
先ほどの「標」と「本」の概念を当てはめると、患者さんはまず市販薬で「標」の治療、つまり症状だけを消す治療を試みたもののうまくいかず、医療機関に行って「本」の診断、症状の根本的な原因の究明を求めた、ということになります。
従って、医療機関で働いている医者は、基本的に「本」に対する診断治療を患者さんから期待されている、といえましょう。
東洋医学ではこのことを「治病求本(ちびょうきゅうほん)」と表現します。病を治すに当たって、まずは本質的な原因を究明すべきである、それが医療のプロフェッショナルとしての態度だ、という意味です。
しかしそれにも例外があり、まず「標」の治療を求められる場合もあります。
救急医療などで、いまにも呼吸や心拍が止まりそう、といった事態では、時間のかかる原因究明はさておいて、直ちに心臓マッサージや気管内挿管で生命を維持する処置が優先されます。
ほかにも、治療の見込みがない病気にかかってしまい、患者さんが延命のための治療を望まず、症状だけをとってほしいとおっしゃるようなとき、「標」の治療がメインになるでしょう。
この「標」と「本」の区別は、東洋医学の難しい理屈の中では、比較的理解しやすいもののように私は思っていましたが、学生さんにとってはそうではなかったようです。確かに実際の臨床でも、何が「標」で何が「本」なのかよくわからなくなることが時としてあります。
私は西洋医学の分野では免疫の疾患を専門としています。いわゆる「難病」を診る機会が多いのですが、その何が難しいかというと、まず「治すこと」「救命すること」です。これらの点に関しては、ここ数十年の間に新しい治療が次々に現れて目覚ましい成果を上げています。
しかしそれでも、いまだに「難病」であり続けているのは、「いつまで治療を続けるのかの判断が難しい」「予防や再発防止が難しい」などの問題点が残されているからです。
これは、免疫の疾患において、何が「本」であるかを明らかにするのが難しい、ということの反映だと私は考えます。
「本」が何かがわからなければ、必然的に「標」と「本」の区別も曖昧となります。しかしこれは、免疫疾患に限りません。精神科や心療内科の領域も、同じようなことがあるようです。
「本」にたどりつけない免疫と精神
…
この記事は有料記事です。
残り1696文字(全文3275文字)
新潟医療福祉大学 リハビリテーション学部 鍼灸健康学科教授
1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。北里大学大学院修了(専攻は東洋医学)。東京女子医大付属膠原病リウマチ痛風センター、JR東京総合病院、NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科を経て、2023年4月より、新潟医療福祉大学リハビリテーション学部鍼灸健康学科教授。聖路加国際病院 Immuno-Rheumatology Center 臨床教育アドバイザー 。福島県立医科大学非常勤講師。著書に「未来の漢方」(森まゆみと共著、亜紀書房)、「漢方水先案内 医学の東へ」(医学書院)、「ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話」(上橋菜穂子との共著、文藝春秋)など。訳書に「閃めく経絡―現代医学のミステリーに鍼灸の“サイエンス"が挑む! 」(D.キーオン著、須田万勢らと共訳)がある。





