1923年9月1日の関東大震災からちょうど100年になりました。
毎年、関東大震災記念日の前後には大きな話題になりますが、このコラムが掲載される10月になれば全くと言っていいほど話題にのぼらなくなります。
関東大震災から100年間、首都直下型の大震災はなかった、という事実は、これから先も当分起こらないだろうと楽観する根拠にはなりません。
東京の湾岸エリアに建つ高額な高層マンションが飛ぶように売れ、都心のオフィスビルが高さを競って林立する様からは、とりあえず、売れるモノを売ってしまえばあとは知らないという不動産業界の無責任と、目の前の利権に群がって国の将来などが一顧だにしない政治家の強欲が透けて見えます。
松沢病院における関東大震災
関東大震災では、1919年に東京・巣鴨から荏原郡松沢村(現在の世田谷区八幡山)に移転したばかりの松沢病院でも、6棟が全壊、54棟が半壊、その他の建物にも大きな損害を出しました。
病棟の全壊は2棟で済んだこともあり、死者は患者さんの付き添い2人、負傷は患者さん1人でした。火事は出さずに済みましたが、余震が続く中、さらなる建物の倒壊も予測されたので、患者さん、職員700人が数日にわたって敷地内に野営しました。のちに看護長となる前田則三は、その時の様子を次のように記録しています。
それまで一見痴呆(ちほう)のような状態にあった人々、妄覚や妄想のとりこになって、孤立無為の生活をしていた人々が、にわかに正気に返って自分のため、友のため。病院のために働き始めました。
(略)震災後数か月は、全患者の半数に近い人たちが、作業治療の名で、倒壊した建物の跡片づけや振動のために辷(すべ)り落ちた屋根瓦の始末を始め、緊急な多くの労務を、労働者が払底していた時に、彼らに代わって片づけました。(金子嗣朗=つぐお=著「松沢病院外史」)
一方、若い医員としてこの状況に遭遇し、のち、東大教授・松沢病院長となった内村祐之は当時の様子を次のように回想しています。
震災後の管理の上で最も困難だったのは、うち続く余震に、木造の病棟内に患者を収容することが危険なために、七百人に余る患者を終夜、屋外で保護しなければならなかったこと、また、朝鮮人来襲の流言におびえて、近所の人々が病院に避難してきたことから生じる混乱を鎮めることであった。
(略)しかし、この震災を契機として突発した最も顕著な精神医学的の現象は、精神病院の中では起きないで、世間一般の正常人の中で起こった。電波のような速さで広がる流言飛語がそれである。
多くの精神病者を抱えた病院が襲撃されるなどということは、平時なら夢想だにできないことだが、余震は続くし確かな情報も何一つ得られぬ不安な状態の中では、ささやかな流言も、「もしや」という気を起こさせる。
そして多くの人が感じる「もしや」の気分は相寄って、本当だという意味にすり替えられてしまうのだ。(「鑑三・野球 精神医学」日本経済新聞)
内村はまた別の著書の中で次のようにも述べています。
私が徒歩で病院と自宅との間を往復していると、所々に関門ができていて、竹やりを持った警防団員が、一々通行人を調べるのである。そこで、できるだけ正確な発音で応答して、通してもらうのだが、その時の気持ちは、滑稽(こっけい)な中にも何か真剣なものがあって、われわれ自身、流れている噂(うわさ)を完全には否定できなかった。
毒物を投げ入れた井戸には特別なマークがついているから注意せよと言われれば、やはり、自分でも調べるといった心境であった。(「わが歩みし精神医学の道」みすず書房)
流言を信じて、外部から病院敷地内に入ってきた住民から伝わった朝鮮人襲撃のうわさは、患者さんの間にも動揺を起こしますが、それは目の前の生活再建の忙しさに紛れて、大きな事件を引き起こすことはありませんでした。
塀に囲まれた病院の中、孤立無援の状況で、信じられないような活躍をした患者さんや職員がいた一方で、塀の外からは、患者の逃亡を防げという警察の指令だけが届いていました。
そうしてまた、塀の外には流言飛語が飛び交い、よく知られている朝鮮人虐殺という惨事が繰り広げられていたのです。
二つの文献における問題
小池百合子・東京都知事は、2017年以降、9月1日に開かれる「朝鮮人犠牲者追悼式典」にメッセージを送るのをやめました。
朝鮮人虐殺の事実を認めないのか…
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