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藤井8冠に学ぶ人工知能と医学の未来像

津田篤太郎・新潟医療福祉大学 リハビリテーション学部 鍼灸健康学科教授
記者会見でバラの花を使い数字の8をかたどったフラワーボックスを手に写真撮影に応じる8冠の藤井聡太名人=名古屋市中村区で2023年10月13日、兵藤公治撮影
記者会見でバラの花を使い数字の8をかたどったフラワーボックスを手に写真撮影に応じる8冠の藤井聡太名人=名古屋市中村区で2023年10月13日、兵藤公治撮影

 新型コロナウイルス感染症が国内でも大きな騒ぎになり始めた2020年3月のある日、私はその年の夏に開催される予定だったオリンピックがどうなるのか、とても知りたくなって占ってみようと思い立ちました。

 プロの占師ではないので、3枚の10円玉を転がすだけの、コインを使った簡素な素人の易占いです。しかし、結果はとても興味深いものでした。

 最初の3回で「沢」を象徴する結果を得て、次の3回で「水」を表す結果が出ました。これらは「不安定」「流動的」な状況が積み重なっていることを意味していました。おみくじでいえば「大凶」ですね。

 なるほど、この状況ではオリンピックなど無理だという結果なのだな……と納得しながら、古代中国人が記した易占いの解説書「易経」で、「沢」と「水」が重なる卦(け)についての記載を確認してみました。

 すると、「困・亨・貞」の3文字が目に飛び込んできました。医学の古典もそうですが、おしなべて優れた古典というものは、極限までに切り詰めた表現で端的に本質に迫るので、そのままだと何が何だかわからない、謎めいた文句の羅列にしか見えないことがしばしばです。

 そういう勘の悪い現代人のために、数多くの優れた学者が注釈書を出してくれています。いつも私が参照するのは、この連載でも取り上げた日銀副総裁・氷見野良三氏がご推薦の公田連太郎著「易経講話」(全5巻)です。

 公田氏の注釈は、「困」という漢字の成り立ちから始まります。「困」は四方を壁に囲まれている植物をかたどった文字で、枝葉を伸ばそうにも窮屈で八方ふさがりの状況を意味するのですが、「困」った植物は持ち前の旺盛な生命力で、わずかな隙間(すきま)に突破口を求め、やがては壁の外に脱出して困難を克服するものである、だから「困は亨(とお)る」――今は困っていても、最終的には成就する――と公田氏は論じます。

 そう考えれば、いま目の前にある困難に正面からぶつかっていき、しっかり「困りとおす」ことが打開の糸口につながることになるわけで、「大凶」とはいえ正しい道を歩んでいると言えます。

 3文字目の「貞」は「ただしい」と読み、「易経」を書いた古代中国人は、「困」という状況に「吉凶」とは別次元の、「ただしい」「真っ当である」という評価を与えていることがわかります。「易経」にはこのように、運命に翻弄(ほんろう)される者にあたたかい言葉をかける人間的な優しさが感じられる箇所があります。

 オリンピックは紆余(うよ)曲折の後、1年後にどうにか開催されました。「困」のパワーはすごいんだなと感心したのですが、先月、棋士の藤井聡太さんが8冠制覇を決めた将棋が、まさに「困・亨・貞」を地で行くものであったようです。

自らを「困難」に追い込む勝負師

 すでに七つのタイトルを獲得していた藤井さんが、残る「王座」のタイトルを保持する永瀬拓矢さんと臨んだ10月11日の将棋は、終盤にかけ永瀬さん有利に進み、人工知能(AI)による情勢判断も90%以上の確率で永瀬勝利を示していました。

 ところが、123手目の永瀬さんの番に、たった一手、悪い手を指してしまったために、大逆転して藤井さん勝利の結果に終わりました。

 この衝撃的な顚末(てんまつ)は一部の報道で「藤井8冠がAIを超えた!」とセンセーショナルに報じられましたが、私が思うに、こういう報じられ方は不正確です。

 将棋の世界ではすでにAIがシンギュラリティー(技術的特異点)、すなわち人間の頭脳の限界を超えたとされ、短時間で膨大なパターンを先読みして、しかもミスはまずありませんから、たとえ8冠といえども正面からAIと将棋をして勝つことは難しいでしょう。

 ただ、藤井さんがAIの計算した「最善の手」に従わず、永瀬さんに勝ったのは事実です。永瀬さんがミスをした手の1手前、藤井さんの122手目は、AIの計算によるとベストの一手ではなかったようです。劇的に悪くなるような手ではないけれども、不利な情勢の中、わずかでも負け確率を減らしたいなら、別の手のほうがよいと、AIの計算結果ははじき出していたわけです。

 こうした計算機的な情勢判断は、将棋に臨む両者が合理的でミスのない判断を続けることを前提としたものです。

 しかし実情は違います。

 朝から始まった将棋は日没を過ぎても終わらず、二人とも持ち時間を使い切り、互いに1分以内に次の手を指していくギリギリの終盤です。藤井さんはただ計算上…

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新潟医療福祉大学 リハビリテーション学部 鍼灸健康学科教授

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。北里大学大学院修了(専攻は東洋医学)。東京女子医大付属膠原病リウマチ痛風センター、JR東京総合病院、NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科を経て、2023年4月より、新潟医療福祉大学リハビリテーション学部鍼灸健康学科教授。聖路加国際病院 Immuno-Rheumatology Center 臨床教育アドバイザー 。福島県立医科大学非常勤講師。著書に「未来の漢方」(森まゆみと共著、亜紀書房)、「漢方水先案内 医学の東へ」(医学書院)、「ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話」(上橋菜穂子との共著、文藝春秋)など。訳書に「閃めく経絡―現代医学のミステリーに鍼灸の“サイエンス"が挑む! 」(D.キーオン著、須田万勢らと共訳)がある。