絵画や音楽といえば趣味や遊びのように思う人が多いかもしれない。しかし、社会が成熟し精神的な問題を抱える人が多くなった時代、芸術や文化の役割は以前よりはるかに大きなものになっている。教育や街づくりにおいてアートの果たし得る可能性をもっと真剣に考えるべきだ。
美術や音楽を軽視する学校教育
なぜ人は歌うのだろうか。うれしくて心が弾むと自然に鼻歌が出たり、悲しくせつない気持ちを歌に込めたりする。誰に教わるともなく子どもは絵を描き、一枚の絵が時を超えて人々の心に感動をもたらしたりする。
私たちは自分でもよくわからない情動に駆られながら日常を過ごしている。合理性では埋められない心の隙間(すきま)や痛みを無意識のうちに何かを表現することで癒やしている。
「創造性とは、日常的な『囚(とら)われ』から逃れるためにどうしても必要なものであり、『存在することの苦痛』を和らげる手助けをしてくれる」
フランス西海岸のナント市で2017年に日本の障害者芸術展が開催された。その際に行われた学術シンポジウムで、フランスの精神科医は語った。さまざまな利害や価値観がぶつかり合う社会の中で生きるということは、嫌でも抑制を強いられ、誰もが不全感やストレスを背負うということなのだ。そうした日常の「囚われ」や「苦痛」から精神を解放するために芸術が必要だというのである。
社会的格差は広がっているものの飢えやテロとは縁遠い社会に私たちは生きている。情報テクノロジーが高度化し、知りたいことや見たいものが瞬時に手に入る便利さを享受している。それにもかかわらずというべきか、それゆえなのか、見えない不安が社会に広がり、孤立感や疎外感にさいなまれている。精神疾患の外来患者は20年に586万人に上り、精神を病んだことによる労災や自殺も増え続けている。
小学校ではいじめや不登校が急増し、小中高校生の自殺は年間500人を超えるまでになった。子どもたちを覆う影は暗く重苦しいものになっている。
子どもたちだけではない。22年度にうつなどの精神疾患で休職した公立学校の先生は6539人に上る。前年より1割も多く、初めて6000人台となった。
こんな時代だからこそ学校教育においてもアートの持つ可能性を再評価すべきだと思うのだが、主要5科目に比べて図画工作や美術の授業はコマ数が少なく、専門の美術教員ではない先生が兼務している学校もある。さらに小学校では英語やプログラミングの授業が導入され、学力重視の風圧が強まっている。美術や音楽が軽視される傾向がますます強まっていると嘆く美術教員もいる。
国際競争に負けないよう経済界は学校現場に即戦力を求めるが、何か大事なものを失っているように思えてならない。
アール・ブリュット
一方、芸術や文化を積極的に取り入れ、多方面から注目されているのが障害者支援の現場だ。
知的障害がある作家である山下清は放浪の天才画家としてテレビドラマに何度も取り上げられているが、近年は各地で知的障害や精神障害のある人が絵画や陶芸で傑出した才能を発揮し、欧州各国で日本の障害者芸術の展覧会が繰り返し開催されている。
彼らの多くは誰かに指導されるわけでもなく段ボールや広告の裏に絵を描き、その芸術性に気づいた福祉職員らの手によって、作品として世に出るようになった。何か目的があって創作活動をしているようにも思えず、既存の美術教育の手あかが付いていないところから「アール・ブリュット(生の芸術)」とも呼ばれている。
フランスの画家、ジャン・デュビュッフェが1945年に「アール・ブリュット」を提唱し、障害者の作品だけでなくアフリカやオセアニアの未開部族による民族芸術も含むものとして概念化されてきた。ピカソは作風に影響を受けただけでなく、熱心な収集家としても知られている。
2000年代に入ってから、日本の障害者福祉の関係者がスイスやフランスの美術館に作品を紹介し、欧州各国で日本のアール・ブリュットが注目されるようになった。知的障害者の独特のユーモアやおおらかさを感じさせる絵画や陶芸作品が人気を集め、作者である障害者はアーティストとして現地の美術誌に紹介されたり、芸術祭に招待されたりしている。
あたかも…
この記事は有料記事です。
残り1781文字(全文3522文字)
植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさしい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問(非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員なども。著書に「弱さを愛せる社会へ~分断の時代を超える『令和の幸福論』」「あの夜、君が泣いたわけ」(中央法規)、「スローコミュニケーション」(スローコミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。





