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無罪判決まで8年半--「乳腺外科医冤罪事件」はなぜ生まれたか

谷口恭・谷口医院院長
東京高裁の無罪判決を受けて記者会見する医師(手前)=東京・霞が関の司法記者クラブで2025年3月12日午後3時26分、菅野蘭撮影
東京高裁の無罪判決を受けて記者会見する医師(手前)=東京・霞が関の司法記者クラブで2025年3月12日午後3時26分、菅野蘭撮影

 2025年3月12日、「乳腺外科医わいせつ事件」の「差し戻し控訴審」の判決が下されました。東京高等裁判所は1審の無罪判決を支持し、検察側の控訴を棄却しました。この事件は40代の男性乳腺外科医が女性患者にわいせつ行為をしたとされるものですが、逮捕当初から我々医師のほぼ全員が冤罪(えんざい)であると確信していました。医師によるわいせつ事件はたびたび報道されていますから、この事件も「乳腺外科医師が罪を犯したのでは」と考える人もいるかもしれませんが、我々の視点からはあり得ない話です。では、被害を訴えた女性の証言はウソだったのかというと、そういうわけではありません。今回は、この乳腺外科医冤罪事件を医師の視点から解説してみたいと思います。

病室は満室 犯行は可能か

 その前に、「差し戻し控訴審」という聞きなれない言葉が登場していますから、今回の判決までの流れを整理しておきましょう。

・16年5月10日、東京都足立区の柳原病院で、胸部の手術直後の30代の女性が病室で40代の乳腺外科医の医師からわいせつ行為を受けたと訴えた。警視庁は8月25日、医師を準強制わいせつの疑いで逮捕し、医師はその後起訴された

・19年2月20日、東京地裁は医師を無罪とする判決を下した。東京地検は控訴。

・20年7月13日、東京高裁は1審の無罪判決を破棄し、医師に懲役2年を言い渡した。医師は上告。

・22年2月18日、最高裁は2審・東京高裁の有罪判決を破棄し、審理を差し戻した

・25年3月12日、東京高裁は、医師を無罪とした1審の地裁判決を支持し、検察の控訴を棄却。

 1審では無罪判決が下されたものの、控訴審では逆転の有罪判決が出され、最高裁でその有罪判決が破棄されて、審理が高裁に戻され、高裁で無罪となる、という複雑な経緯をたどりました。

 その要因については後述することとして、先に事件の内容を振り返ってみましょう。

 女性が医師から受けたと主張するわいせつ行為の内容は、「右乳腺腫瘍摘出手術の終了後に戻された病室で、医師に着衣をめくられ、手術していない左乳房の乳首をなめなれ、医師は自慰行為に及んだ」です。

 警察・検察としては、女性の証言が正しいことを証明するために証拠を積み上げていかねばなりません。しかし、その前提として「証言は正しいのか」を考えなければならないはずです。このような事件が本当に起こり得るのかどうかをまずは想像することが必要です。

 女性患者の病室は4人部屋で、他にも3人の患者がいた(つまり満室)と報道されています。

 事件が起こったとされたのは午後2時55分から午後3時12分までの間。看護師など病院スタッフが頻繁に病室に出入りする時間帯です。病室は満室ですから、他の患者の見舞い客がいつ来てもおかしくありません。そして、手術直後ですから女性患者の家族や知人がすぐ近くにいることが予想されます。この状況で、術後の経過を見にきた執刀医が自慰行為にふけることができるでしょうか。

薬で起こる異常な言動

 もっとも、女性が「ウソ」を言っているわけではないと私は考えています。では、なぜ女性は…

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谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 月額110円メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。