次代を動かす者たち 緒方林太郎の政治原論 弱者に本当に寄り添っているのはリベラルではない=森功
政治ノンフィクションの最前線を走る森功氏が、現在の永田町の混迷とあり得べき将来を見据え、次の時代を担う政治家や官僚たちを描く新シリーズ。
第1回は、無所属で存在感を示す緒方林太郎氏に迫る。(ノンフィクション作家・森功/サンデー毎日5月10・17日号掲載)
日本でいちばん選挙に強い無所属議員―。
自民党の総務大臣経験者は緒方林太郎(53)のことをそう評した。洞海(どうかい)湾を望む政令指定都市北九州市西部の福岡9区選出の衆議院議員である。かつて八幡製鉄所で栄えた「鉄の街」の小選挙区で5選を積み上げてきた。さる2月8日の衆院選の投開票結果は福岡9区の36万人あまりの有権者のおよそ28%、10万800票をつかんだ。自民党が公認した次点の三原朝利(あさと)の6万7073票に3万票以上の大差をつけて圧勝している。東京大学法学部を中退して1994年に外交官になり、国会議員に転身した超エリートに見える。が、実は苦労人でもある。
――どのような生い立ちだったのか。
「私の生まれた1973年1月はまだ鉄(鉄鋼業)の華やかなりし時代でした。父は新日鉄のサラリーマンで、八幡西区の鉄竜という町の社宅で生まれ育ち、福岡県立東筑高校を卒業して平成3(1991)年に東大教養学部の文科Ⅰ類に入りました。大学入学時はまだバブルの残り香があり、北九州にも活気がありました」
――東筑高校は県内屈指の進学校であるけれど、東大に現役合格できる生徒はさほどいないイメージがある。珍しいのではないか。
「私の年で数人、その前には2桁東大に入った時期もあったそうですから、そうでもないと思います。一昨年、『文藝春秋』(2024年12月号)巻頭グラビアの「同級生交歓」にいっしょに出た同級生の中には、外資系金融のクレディ・スイス証券前代表取締役社長兼CEO・桑原良さんもいます。東大文Ⅰの入学者といえば、4~5割は国家公務員採用Ⅰ種(現・国家公務員採用総合職)の試験か、司法試験を受けるような学生ばかりなので、みな法律を勉強し、1年生の頃から司法試験予備校に通う人たちもいました。そのなかで私は初めから外務省を念頭に置いて、学生生活を送ってきました」
無所属を続けたいわけではない
――なぜ大半の東大生と異なり、外交官になろうとしたのか。
「今は制度がなくなったけれど、当時は20歳で外務公務員採用Ⅰ種(現・国家公務員採用総合職)試験を受けられました。つまり大学3年で試験を受けて合格する学生が毎年3〜4人いました。私の家はあまり豊かでなく、鉄冷えで父が出向させられて給料が下がっていたので、3年で大学を終えられれば家計が助かる。私は長男で郷里にすぐ下の弟がいて、同じように東京の大学に行きたがっていました。で、試験を受けたらたまたま合格したのです」
――93年7月の外交官試験合格は、20歳半年の最年少記録だけに難しかったのでは?
「折しもこの年の1月、今の天皇、皇后両陛下のご成婚が発表され、北米2課に勤務されていた(小和田)雅子さまブームが起きて外交官試験は大変な人気でした。1次試験は1700人ほど受けたと聞きました。代々木にある体育館のような広い研修施設を使い、2日間にわたって試験がありました。といっても、出願者の中には試験会場に来ない人もいて、実際、1日目の午前中が終わると受験者はガクンと減りました。2日目になると、会場はもうスカスカでした。試験の最終合格者は28人だったので、すべての出願者から単純計算すると70倍近い倍率ですけれど、水膨れしているので3倍ぐらいの競争率だと思います」
――94年4月に外務省入省してからどんな仕事に携わったのか。
「突然『フランス語をやれ』と言われて戸惑い、一生懸命勉強しました。95年から駐フランス大使館に2年務め、97年にフランスの旧植民地である西アフリカのセネガルに行き、2年住みました。アフリカ赴任の際、黄熱ワクチンを接種したけれど、なかば熱病にかかったような状態で、あれはきつかった。
そのあと99年に日本に戻って東京の本省で中東を担当する部局の課長補佐となりましたが、死ぬほど苦労した記憶があります。アフガン担当課の総括課長補佐として2001年の9・11にも遭遇しました。イランにも何度も行っていますから、あの国と付き合いは肌で感じてきました。外務省にはトータル11年勤めました」
――米大統領のドナルド・トランプが始めたイランとの戦争についてはどう見ているか。
「ペルシャ語はできないんですけれど、イランのことも詳しくなりました。今でもアフガン、イラン、イラク、サウジアラビアについては、そのあたりの国会議員より土地勘があると自負しています。たとえばイランのハタミ大統領(当時)が訪日したときには東京で対応しました。ハタミ大統領はイラン国内で改革派と見られていて、今のペゼシュキアン大統領はハタミ政権の閣僚だったので、ペゼシュキアンも改革派の系譜にあります。それは何を意味するか。要するに彼には国内でさしたる力がないということを示しています。
イランではイスラムの宗教者と軍隊が絶対的な存在といえます。軍隊といっても正規軍の国軍とは別組織の革命防衛隊。日本にいるとそうは見えないけれど、世界中どの国でも力のある組織が強い。だから中国については、軍隊がどう動くか、そこからモノを見ていくことが必要なのです。イランは、イスラムの坊さんと軍隊の動きが大事だと考えています」
2005年に32歳で外務省を辞め、地元の北九州に戻って選挙活動を始めた緒方は、09年8月の総選挙で民主党(当時)から出馬し初当選を果たした。だが、自民党が政権にカムバックした12年12月の選挙では落選、次の14年12月には再び当選したが、17年10月の民主党分裂後の「希望の党」騒動の選挙で落選する。21年10月の総選挙から無所属で小選挙区に出馬して3選、今年2月の当選で実に5度目となる。
――2度の落選から一転、最強の無所属議員と呼ばれるようになった、その学びは?
「今度の選挙では野党の当選者が少ないこともあって『あいつは何者なんだ』と思われる方もいるかもしれません。実は選挙前には中道改革連合の幹部から『いつまで無所属でやっているんだ、そろそろ合流しろ』と誘われました。けれど、あの政党がこれからどうやっていくか、党内も治まってなく、政策的にもずっとこじれています。たとえば沖縄の基地問題一つとっても、旧公明党と旧立憲民主党は立場が違う。安保法制については、当然公明党は与党でしたからマルなわけですが、つい最近まで違憲だと主張していた立憲民主党とどう整合性をとるのか。政策的に噛み合っていない。そんなところには乗れません。
現実の選挙でいえば、次も今回のように公明党を比例で優遇するのか。中道の落選組から『どう思いますか』と訊(き)かれます。私は希望の党騒動で落選してから戻るまで4年間無所属のまま浪人しました。その間金銭的にはキツかった。中道改革連合の落選組は、これからいろんな岐路に立たされるわけです。
純粋に今回の選挙だけについていえば、無所属を選んだ私の選択は間違っていなかったと思います。しかし私は無所属を長く続けたいとは思っていません。やはり国会は団体戦なので、当選しても野党の出番が減りました。政党政治ですべてが進んでいるなか、いつまでも無所属を続けていたいとは考えていません」
自民党もリベラルも消滅の危機に
――するとこの先は自民党への合流を考えているのか。旧安倍派の政治とカネ問題が起き、自民党政治は終わりと指摘されてきた半面、今回の総選挙では野党第1党の中道改革連合がひとり大負けして自民が圧勝した。そこをどうとらえるか。
「ある自民党の閣僚経験者が今回の選挙が終わった後に私のところにやって来て、『ウチも、終わりの始まりなんだよ』とボソッとひと言漏らしていました。私の福岡9区にも高市総理が応援にやって来て4000人くらいの聴衆が集まった、と聞きました。けれど…
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