豊臣秀吉を助けた弟、秀長 馬にも乗れなかった痛みの正体
年齢が近く、同じ領域にある兄弟というのは関係が難しい。両親から同じ遺伝子をもらい、同じ環境で成長すると、どうしてもライバルになりやすい。スポーツでも学問、芸能でもたいていは先に生まれた兄が一歩先んじるものだが、弟の方が才能に恵まれていたり、より両親の期待を受けていたりすると関係がこじれることがある。
戦国時代では織田信長や伊達政宗、江戸時代では徳川家光が後継者争いで弟を死に至らしめているし、鎌倉幕府を開いた源頼朝と義経、室町幕府初代将軍の足利尊氏、直義兄弟ももともとは得難い協力者でありながら、天下が定まると、覇者となる兄が弟の生命を奪っている。その点、あくまで兄を助けてその軍略や統治に協力したのは武田信玄の弟の信繁、徳川家光の異母弟である保科正之、そして今日から放映されるNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する豊臣秀吉と弟、秀長ではないかと思う。
秀吉に次ぐ地位に
豊臣秀長は天文9(1540)年3月2日、尾張国中村に生まれた。木下弥右衛門(かつては竹阿弥を父とする、秀吉の異父弟とされてきたが、最近では同父同母ではないかと言われている)と大政所(おおまんどころ)・仲の次男として生まれた。幼名は小一郎。若いころから兄の秀吉に従い、兄が信長の家臣として台頭するのに伴って、その補佐役として軍事・行政両面で才能を発揮していくことになる。
特に毛利氏と戦った中国攻めや本能寺の変(1582年)後の中国大返しでは、目立たない後方支援や兵站(へいたん)管理を担い、天下取りに大きく貢献した。天正13(1585)年、秀吉が関白になると、秀長は大和、紀伊、和泉の三国に河内の一部を領有して石高は100万石を超え、郡山城を築いて本拠とし、豊臣家中で秀吉に次ぐ一門衆筆頭の地位となった。九州から臣従のために上京した大友宗麟に対し、秀吉は「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたとされている。
豊臣政権の大名統制の権限が秀長に委託されており、中国地方の毛利輝元や旧主筋の織田信雄、また最大のライバルであった徳川家康に加え、敵対していた四国の長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)や九州の島津兄弟と戦った後、和睦と領土の確定(国分)をまとめ上げている。領国内でも古代から権力と経済力のある大和の社寺を統制して莫大(ばくだい)な税収入を確保し、加藤清正と並ぶ築城の名人である藤堂高虎を家老として土木建築も進めていった。秀長の政治的成功の秘訣(ひけつ)は温厚篤実で謙虚な性格であったといわれている。
痛くて馬に乗れなかった
興福寺の僧侶、英俊による「多聞院日記」では、天正14(1586)年11月には横痃(おうげん、よこね)ができて馬に乗れなかったとする記録がある。横痃とは鼠経(そけい)リンパ節が腫れる状態で、多くの場合は梅毒や淋病(りんびょう)、クラミジア、軟性下疳(げかん)などの性感染症を原因とし、性器に感染した病原体がリンパ流に乗って上行する過程で鼠経リンパ節に炎症をきたすことによって生じる。性感染症以外にも下肢の外傷や動物咬傷(こうしょう)でも生じるが、そういった場合は受傷した側だけに起こる。
秀長は秀吉のような漁色家ではなかったが、当時の武将の常として複数の側室がおり、…
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はやかわ・さとし 1983年日本大医学部卒。同大産婦人科講師、感染制御科学部門助教授、病態病理学系微生物学分野教授などを経て現職。日本産婦人科感染症学会理事長。著書に「戦国武将を診る」「ミューズの病跡学」ほか。