配信18回目 地下街で信号が消える【前編】 ――案内表示を信じるな
地下街の案内表示が夜中に全部消えて、迷い込んだ人が記憶を失くして出てくるらしい。
一人だけ、まだ出てきていない。
そしてなぜか、帳面の死神がまた来た。
*****
放課後の事務所は、いつも通りの惨状だった。
古い机の上に書類の山。配信機材が三台。空になったペットボトルが二本。怪しい札の束が段ボール箱に入ったまま床に転がっていて、その横に食べかけのカップ麺が置いてある。冷蔵庫の上にはぬいが寝ていて、天井の蛍光灯はかすかに明滅している。
私は相談メールの返信を打ちながら、足元のゴミ袋を蹴った。
「朔夜、このカップ麺いつのやつ」
「昨日」
「昨日のやつ、せめて捨てて」
「お前がいるだろ」
「私は清掃員じゃないんだけど」
「補助スタッフだ。清掃も業務に含まれる」
「業務の範囲が広すぎるんだよ! 清掃から囮から死後潜入まで全部一人って何!」
「効率的だろ」
「私の命が効率で計られてるの怖いんだけど」
朔夜は私の抗議を無視して、スマホの画面を見ていた。
毎度だが、ほんっっっっとーーーーーに、顔だけは無駄に良い。薄暗い事務所の中でも輪郭がきれいに出るくらい整った横顔。だるそうに伏せた目元に、少し長めの黒髪が影を落としている。黙ってさえいればドラマ・映画にだって出られる。黙ってさえいれば。
ぬいが冷蔵庫の上で寝返りを打った。灰白色のふわふわした体が転がって、危うく落ちかける。琥珀色の目がうっすら開く。
「うるさいのう……。おぬしら、わしの昼寝を妨げるでない」
「もう夕方だよ」
「夕寝じゃ」
「そんな言葉はない」
事務所のベルが鳴った。
誰かが来た。
扉を開けると、くたびれたスーツの男が立っていた。目の下にクマ。無精ひげ。仕事に疲れた顔——というより、仕事に疲れさせられている顔。
槙野恒一。警察側の窓口。
この人が来る時点で、ろくな案件じゃないことは確定している。
「入れ」
朔夜が画面から目を上げずに言った。
「入れ、じゃないだろ。お前の事務所だぞ」
「お前が勝手に来たんだろ」
「来たくて来てるわけじゃない」
「いつも言うな、それ」
「いつも本心だからな」
信用はないが利害は一致する。この二人の距離感はいつもこうだ。
槙野はパイプ椅子に座って、嫌そうに説明を始めた。
「地下街の管理会社から泣きつかれた」
「またか」
「またじゃない。今回は少し質が違う」
槙野が机の上に書類を広げる。地下街のフロアマップ。東側区画に赤い印がいくつか打ってある。
「ここ二週間ほど、深夜に地下街の案内表示が全部消える現象が続いている」
「電気系統の故障じゃないの?」
私が聞くと、槙野は首を振った。
「管理会社もそう思って業者を入れた。二社。どちらも異常なし。配電盤は正常。監視カメラの映像を確認すると、午前二時頃に案内表示が一斉に消えて、午前四時頃に戻る。その間、監視カメラの映像にもノイズが入る」
「二時間だけ」
「二時間だけだ。それ以外の時間は完全に正常。だから昼間の営業には影響が出ていない。管理会社も最初は放置していた」
「放置してたのに今更泣きつくってことは、何かあったんでしょ」
「迷った人間が出ている」
槙野の声が少し低くなった。ここからが本題の空気。
「深夜の地下街に入り込んだ人間が、翌朝、入った場所とは全然違う出口から出てくる。本人は"まっすぐ歩いたつもり"だと言っている。地下街の端から端まで、直線距離で八百メートルある。それを"まっすぐ"歩いて正反対の出口に出るのは、物理的にありえない」
「で、記憶は?」
「全員、その夜の記憶が曖昧だ。"気づいたら外にいた"と言う。体に異常はないが、方向感覚がおかしくなっている。直った人もいれば、一週間くらい東西がわからなくなった人もいる」
「何人?」
「確認できて四人。うち三人は自力で出てきた」
「四人目は?」
槙野の眉間の皺が深くなった。
「まだ出てきていない。三日前に地下街に入った清掃業者の男。五十二歳。夜間清掃のシフトで、午前一時に東側区画へ入った。午前七時の引き継ぎ時点でいなくなっていた。行方不明届を受理している」
「三日」
「三日だ。地下街の構造上、隠れる場所はあるが、三日間出てこないのは異常だ。管理会社が全通路を確認した。カメラ映像も見た。いない」
「いない?」
「どの出口からも出ていない。どの通路にもいない。カメラに映っていない。地下街の中に入って、地下街の中から消えた」
空気が重くなった。
朔夜がスマホから顔を上げた。
「案内表示が消える時間帯と、迷い込む時間帯は一致するか」
「一致する。午前二時から四時の間だ」
「地下街のどの区画で起きている」
「東側の旧通路寄り。再開発でシャッターが降りた区画の手前あたりだ」
朔夜の目が細くなった。
「再開発」
「ああ。三年前に東側の一部が閉鎖されて、今は壁で塞いである。テナントの撤退と老朽化が理由で、いずれ取り壊して新しい区画を作る予定だったが、予算の関係で止まっている。壁の向こうは旧通路のまま残っている」
「壁の向こうには誰も入っていないのか」
「図面上は行き止まりだ。管理会社の人間も、ここ二年は入っていないと言っている」
図面上は。
この案件の全部が、その三文字に集約されている。
「報酬は」
「管理会社が出す。お前向きの案件だと言ったら、青い顔で予算を引っ張ってきた」
「いくら」
「交渉はお前が直接しろ。俺は仲介だけだ」
「使えないな」
「お前に使えると思われたくもない」
いつもの温度。
槙野は帰り際に、私を見て少し声を落とした。
「影森。今回も行くのか」
「たぶん」
「……気をつけろ。地下は、地上より空間の辻褄が狂いやすい」
槙野はそう言って出ていった。怪異という言葉を使わずに、「気をつけろ」とだけ言う。この人の優しさはいつもそういう形をしている。ぶっきらぼうだが、嫌いではない。――お父さんみたい。
扉が閉まったあと、朔夜が言った。
「管理会社に連絡する。報酬を決めてから動く」
「先に金の話なんだ。やっぱ金の亡者。」
「先に金を決めないと、あとで揉める」
「それは銭原の受け売り?」
「銭原は揉める側だ。俺は揉めない側にいたい」
「どっちも守銭奴だよ」
ぬいが冷蔵庫の上から降りてきて、私の肩に乗った。
「で、また深夜に地下街に行くんじゃろ」
「たぶん」
「おぬし、死ぬのでは」
「縁起でもないこと言うな」
「縁起やない。統計じゃ」
「統計で死を予測するな」
「過去の案件から見て、おぬしが初回訪問で死なん確率は——」
「聞きたくない」
「三割以下じゃ」
「聞きたくないって言ったよね!?」
――――――
深夜十一時過ぎ。
閉店後の地下街の入口に立っている。
管理会社の担当者が「夜間立入許可証」を朔夜に渡した。担当者の手が震えている。「あの、もし何かあったら——」「何かあっても報告書に書けない内容なら、書かないことを勧める」。朔夜の答えは最悪だったが、正確だった。
地下街の入口。ガラスの自動扉は止まっていて、手動で開けた。中は非常灯だけ。昼間のにぎやかさが嘘みたいに静かで、空調が止まった通路は、呼吸する音すら壁に跳ね返る。
この街の地下街は、やたらと広い。
中京圏最大級の地方中枢都市の地下に、駅と駅を繋ぐメイン通路だけで何百メートもあり、そこから枝分かれした通路がショッピング街に、飲食店に、地下駐車場に、さらに深い階層に伸びている。昼間は人の波で空間が埋まっているから広さを感じないが、夜になると天井の低さと通路の長さだけが残る。
人がいなくなった地下街は、街の骨格標本みたいだと思う。
「お前、変なことを考えるな」
「変じゃないでしょ。骨格標本は言い得て妙だと思うけど」
「それを深夜の地下街で言うのが変だと言っている」
「じゃあ何を考えればいいの」
「帰り道と逃走経路」
「思考が生存特化すぎる」
スマホは録画モード。今回は配信オフ。非公開記録のみ。槙野経由の案件で、管理会社が公開を嫌がった。朔夜は「数字が取れる案件を非公開にするのは損失だ」と言ったが、報酬に「非公開手当」を上乗せさせることで折り合いがついた。――何でも金に換算する男。それがアイツ。
「朔夜、非公開手当っていくら」
「聞いてどうする」
「自分の危険手当と比較したい」
「お前の危険手当は出ない」
「出ないの!?」
「非公開手当と危険手当を同時に出すと赤字だ」
「私の命と非公開手当が天秤にかけられてる!」
「天秤にかけてない。非公開手当のほうが高い」
「私の命が安い!!」
ぬいが肩の上で欠伸をした。
「いつものことじゃ」
「いつものことにすんなょ」
東側区画へ向かう。通路が徐々に古くなっていく。床のタイルが色あせ、壁の案内表示のフォントが一世代前のものに変わる。再開発の手が入っていない区画。シャッターの降りた店舗が増え、照明の間隔が広がる。
天井に染みがある。漏水の跡だろう。壁際には使われなくなった電話ボックスの骨格が残っている。蛍光灯の一本が点滅していて、その明滅に合わせて影の形が変わる。
「雰囲気ありすぎない?」
「雰囲気があるから怪異が棲む。逆だ」
「どっちが先でも結果は同じじゃん」
ぬいが鼻をひくつかせた。
「なあ、おぬし」
「なに」
「この地下街、下にもう一層あるぞ」
「え?」
「図面にないやつや。古い。匂いでわかる。この層の下に、まだ何かある」
ぬいの鼻は境界に敏感だ。見えないものの「匂い」を嗅ぎ分ける。こういう時だけ頼りになる。こういう時だけ。
「朔夜」
「聞こえてる。ぬい、方向は」
「東。旧通路のさらに下。匂いが深いぞ。普通の地下街の深さやない」
朔夜が|"権限接続"《アクセス・ライン》を起動した。指先から淡い光が伸びて、通路の壁を舐めるように走る。怪異や境界の反応を探る基本術式。光が壁面を這い、天井を舐め、床を滑って東へ向かう。
「……反応がある。東側。突き当たり。壁の向こうだ」
「やっぱり」
「行くぞ」
「やっぱり」
東側の突き当たりへ向かう。通路はさらに古びて、床のタイルに割れが入っている。壁の案内表示は半分が消えていて、残っている表示も文字の一部がかすれている。
「"お手洗い→"だけ生きてるの、なんか逆に怖い」
「お手洗いの案内は生存力が高い。需要があるからな」
「怪異の知識じゃなくてトイレの知識なんだ」
「トイレは重要だ」
「否定はしないけど今その話いる?」
ぬいが「くだらん」と呟いた。私もそう思う。
そして、通路の突き当たり。
壁。
再開発で塞がれた旧通路の入口。白い壁。つなぎ目に少しだけクラックが入っている。何の案内もない。ここから先はないことになっている。
朔夜が壁に手を当てた。目を閉じて、数秒。
「……薄い。境界がかなり薄くなっている。壁の向こうに空間がある。物理的には閉じているが、境界としては開いている」
「つまり」
「再開発で潰された旧通路が、物理的には閉じたが、向こう側の空間としては残っている。そしてそこに、人が引き込まれている」
「案内表示が消えるのは?」
「旧通路の"記憶"が、現行通路の情報を上書きしようとしているからだ。この地下街の"今のかたち"を、"昔のかたち"に戻そうとしている。今の案内表示は昔の通路には合わないから、消える」
「迷い込んだ人たちは」
「昔の通路を歩かされている。今の出口とは違う場所に出るのは、旧通路の出口から出ているから。そして出口が見つからなかった清掃員の男は——」
「旧通路の奥に、まだいる」
背筋が冷えた。
壁の表面が、ゆるく波打った。呼んでいる。
その時だった。
「お疲れ様です」
背後から声がした。
丁寧語。穏やかな声。低くもなく高くもなく、どちらとも取れる声。
振り返る。
非常灯の下に、白っぽい髪の人が立っていた。
白に近い銀か、淡い藤色がかった灰。肩くらいの長さで、きちんと整えられている。薄いコート。白いシャツ。スラックス。手元に白い手帳。
鬼灯なゆ。
いつからいたのか。足音はしなかった。非常灯の白い光の下で、この人だけ明るさが違う。きれいだ。深夜の地下街にいるのに、透明感のある白い肌が光を集めている。男にも女にも見える整った顔が、穏やかに微笑んでいる。
「なんでここに」
「業務確認です。影森さんが案件に入られると伺いましたので、死亡時の状況を記録する必要がありまして」
「死ぬ前提でいないで」
「念のため、です。あくまで念のため」
「"念のため"って言葉が出る時点で死ぬ確率が高いと思ってるよね」
「確率論の話はしていません。備えあれば憂いなし、です」
「備えの内容が帳面なんだけど」
朔夜が振り返った。なゆを見る。空気が三度下がる。
「帰れ」
「業務範囲内ですので」
「邪魔だ」
「邪魔はしません。記録するだけです」
「記録も邪魔だ」
「では、記録しないふりをして同行します」
「それは同行だろう」
「言い方の問題です」
「言い方を変えても事実は変わらない」
「事実を変えるつもりはありません。解釈を調整しているだけです」
朔夜の眉間の皺が限界まで深くなっている。この二人を同じ空間に置くと、会話のたびに室温が下がる。夏場に重宝するかもしれない。冬場は勘弁してほしい。
「影森に近づくな」
「近づいているのではなく、業務上の適正距離を維持しているだけです」
「適正距離が近い」
「夜見さんの言う"適正距離"は、地球の裏側くらいですか?」
「それくらいが望ましい」
「残念ながら、帳簿管理は対面が基本です」
朔夜は実力で排除できない。なゆは神格クラスだ。本気を出されたら朔夜の術が通じるかわからない。深夜の地下街で、正体不明の壁の前で、そんな相手と喧嘩する意味はない。
朔夜は舌打ちして壁に向き直った。「勝手にしろ」の代わりの舌打ち。
ぬいが私の肩で呟いた。
「おぬし、あのふたりを放っておくと永遠に口論しよるぞ」
「知ってる」
「止めんのか」
「止めると巻き添えを食う」
「賢いのう」
「生存の知恵だよ」
私はなゆを見上げた。身長差がある。朔夜が181。なゆが168。私が157。この現場、全員私より背が高い。死ぬ前に首が疲れる。
「……ついてくるなら、本当に邪魔しないでよ」
「もちろんです」
「あと、中で私が死にかけても帳面に書くの待って。せめて蘇生されるまで」
「善処します」
「善処じゃなくて約束して」
「約束は業務規定上できません。善処が最大限の譲歩です」
「融通が利かない」
「帳簿に融通は利きません。数字は数字ですから」
この人と話していると、朔夜とは違う意味で疲れる。朔夜は理不尽が暴力的に来る。なゆは理不尽が丁寧語で来る。どっちも疲れるが、後者のほうがじわじわ効く。
――――――
午前二時を待つ。
壁の前。三人(と一匹)で待機。非常灯だけの通路。静かだ。自分の呼吸と、朔夜がスマホを操作する音と、ぬいが鼻をひくつかせる音しか聞こえない。
なゆは壁際に立って、手帳を開いていた。何かを確認している。正の字が並んだページではなく、別のページ。
「何見てるの」
「過去の記録です。この地下街で、以前に帳簿に記載があったかどうか」
「あったの?」
「七年前に一件。旧通路が閉鎖される前です。地下街の深夜清掃員が、朝になっても出てこなかった。結局、三日後に東側の非常階段の踊り場で見つかっています。衰弱していましたが、生きていました」
「今回と同じパターン」
「はい。ただし七年前は案内表示の消失は報告されていません。旧通路が閉鎖されてから、現象が変化しています。通路を塞がれたことで、出口を探す力が強くなっているのかもしれません」
「出口を探す力?」
「旧通路は、かつてここにあった空間の記憶です。記憶は出口を覚えています。でも今の地下街では、その出口はもうない。だから、今の案内表示を消して、昔の出口を探す」
「……案内表示を消すのは、怪異が出口を探してるから?」
「仮説ですが」
なゆの分析は朔夜と少し違う角度だった。朔夜は「上書き」と言った。なゆは「出口を探している」と言った。怖さの質が違う。上書きは暴力だが、出口を探しているのは——少しだけ、切ない。
朔夜がこちらを見た。
「鬼灯の分析を鵜呑みにするな」
「鵜呑みにしてないよ」
「顔が"なるほど"って言ってる」
「顔に出てた?」
「出てた」
「……それ、嫉妬?」
「分析精度の問題だ」
「嫉妬じゃん」
「違う」
午前二時。
案内表示が消えた。
一瞬ではなかった。じわり、と光が弱くなっていく。非常灯の白い光が、黄色く濁り、橙色に沈み、最後は赤い常夜灯だけが残る。通路の色が変わった。白かった空間が、暗い赤に染まる。
空気が変わった。温度ではない。匂いだ。コンクリートと空調の匂いの下に、もっと古い匂いが混じる。土。湿った石。使われなくなった場所の匂い。何十年も人が通らなかった廊下の、あの独特の重さ。
「……来たな」
朔夜が呟いた。
壁が薄くなっている。さっきまで白かったコンクリートの壁が、非常灯の赤い光の中で、少し透けて見える。透けているわけではない。でも壁の向こうに空間があることが、視覚ではなく皮膚で感じられる。壁が壁であることを、やめかけている。
「ぬい」
「わかっとる。開いとる。壁の向こう、通路がそのまま続いとる。広い。深い。匂いが遠い。普通の深さやないぞ」
朔夜が壁に向かって|"権限接続"《アクセス・ライン》をかけ直す。光が壁を透過して、向こう側に伸びた。長い。光が奥へ奥へと走っていく。
「旧通路が境界ごと沈んでいる。物理的に潰された空間が、向こう側で"まだある"ことになっている。相当深い。"封域指定"で現行通路への浸食を止めるが、中に入ったら封域の外だ。俺の術の到達距離が限られる」
「つまり、中では自力で何とかしろと」
「通信は維持する。映像が切れたら引き上げる」
「引き上げるって、どうやって」
「"境界切断"で壁をこじ開ける。出口を作る。ただし一回しか使えない。タイミングを合わせろ」
「一回……」
「ミスったら帰れないってことか」
「ミスるなということだ」
「ミスる前提でプランBを用意してくれる上司はいないの」
「いない。お前の上司は俺だけだ」
「最悪」
朔夜が"封域指定"を起動。壁の周囲を封鎖する。光の膜が壁を覆い、旧通路の境界がこれ以上広がらないようにする。
なゆが静かに言った。
「影森さん。中は、今の地下街とは空間のルールが違います」
「……知ってるの?」
「似たような場所を、いくつか見たことがあります。再開発で潰された空間が境界化するのは、この街に限った話ではありませんので」
「鬼灯さんは、中に入ったことあるの?」
「ありますよ。お仕事で」
「仕事って、帳面のほう?」
「はい。出てこなかった方を、記録しに」
出てこなかった方。
つまり、死んだ人を。
「……それ、言わなくていい情報だったんだけど」
「すみません。でも、知っておいたほうがいいと思いまして」
「知りたくなかった」
「知りたくないことほど、先に知っておくべきです。そのほうが、死ぬ確率が下がります」
「結局死ぬ前提じゃん!」
朔夜が低く言った。
「鬼灯。余計なことを吹き込むな」
「余計ではありません。現場情報の共有です。夜見さんこそ、もう少し事前に説明されたほうがよいのでは。影森さんはいつも現場で初めて状況を知る羽目になっていますよね」
「俺のやり方に口を出すな」
「口を出しているのではなく、改善の提案です」
「改善を提案するな」
「改善を拒否するのは組織として問題があります」
「うちは組織じゃない。個人事業だ」
「個人事業でも労働環境の改善義務はあります」
「労災も出してない事業所に何を言ってる」
「そこは自覚があるんですね」
もうやめて。この二人の口論を聞いていると寿命が縮む。寿命というか、精神力が。
「はいはい、もう行くよ。行かないと夜が明ける」
私は壁に手を当てた。手が沈む。壁の向こうに空間がある。冷たい。空気の層が違う。
「……行ってくる」
「ああ。連絡は維持しろ。映像が切れたら一回だけ開ける」
「了解」
「影森さん」
なゆの声。振り返ると、なゆは手帳を閉じたまま微笑んでいた。
「死なないでくださいね」
「お迎え側がそれ言う?」
「お迎えの仕事を増やしたくないので」
「前も聞いたよそれ」
「前も本当のことを言いました」
ぬいが肩の上で呟いた。
「おぬし、このやり取り定型化しとらんか」
「してるね。テンプレになりつつある」
「テンプレで死ぬのだけはやめてくれ」
「やめたいよ」
私は壁の中に踏み込んだ。
続く。
*****
■今回の登場人物
・影森ゆら
深夜の地下街に連れてこられた女子高生。壁の向こうの旧通路に入るところまでが前編。まだ死んでいない。「まだ」。
・夜見朔夜
案内表示が消える原因を「旧通路の記憶が今の通路を上書きしようとしている」と分析。鬼灯なゆとの口論は「帰れ」「業務範囲内です」の平行線。改善の提案を拒否した。非公開手当のほうがゆらの命より高いらしい。
・ぬい
「この地下街、下にもう一層あるぞ」と最初に気づいた。ゆらの初回訪問での生存確率を「三割以下」と見積もった。統計で命を計るな。
・槙野恒一
地下街の管理会社から泣きつかれて案件を持ち込んだ苦労人。報酬交渉は朔夜に丸投げした。「気をつけろ」としか言えないが、それが全力。
・鬼灯なゆ
「業務確認」名目で深夜の地下街に現れた。旧通路についての知識が朔夜と別角度で深い。「出てこなかった方を記録しに」入ったことがある。朔夜との口論で「改善の提案」を繰り出した。労働環境への意識が高い死神。
■今回の話の解説
この街の地下街が広いことを活かした怪異回の前編です。
再開発で物理的に潰された旧通路が、境界としてはまだ生きている。案内表示が消えるのは、旧通路が「昔の出口」を探しているから。怖い現象ですが、その根っこには「帰りたい場所がもうない」という切なさがあります。
なゆの同行が本格化する最初の回でもあります。朔夜となゆの口論は「帰れ」「業務範囲内です」から「改善の提案」「改善を提案するな」にまで発展しました。ゆらは間に挟まれて精神力を削られています。
後編では旧通路の内部と、行方不明の清掃員の救出を描きます。ゆらは死にます。
「少しでも楽しんでいただけたら、ブックマーク登録・評価・コメント・レビューで応援いただけると励みになります!」




