名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


ファッション映画の続編が教えてくれるダイジなこと:『プラダを着た悪魔2』について






 突然、気づいた これこそ、わたしがなりたかったもの


 ーーKTタンストール「Suddenly I See」



 いまや、終末の感覚はあなただけのひそやかな感傷ではなくなった。

『プラダを着た悪魔2』を観るといい。

 どこもかしこも死の匂いと終末論者に溢れている。かれらは叫んでいる。出版業界は死につつある、ファッション業界は死につつある、映画業界は死につつある、芸術が死につつある、人間が死につつある。あなたも、わたしも。すべてが滅びつつある。だれでも知っている。いまや、靴磨きの少年でさえシオランbotの警句を賢しら顔で引いている。





『2』のオープニングは『1』とおなじくアンディ・サックス(アン・ハサウェイ)が朝、電動歯ブラシを口につっこむところからはじまる。あきらかに『1』のセルフオマージュであるけれど、違うところは多い。若き女性の野心と憧れを歌ったKTタンストールの『Suddenly I See』は、頂点に立った誇りを歌ったレディ・ガガとドーチーのオリジナル曲『RUNWAY』にとってかわられ、アンディと並行して映っていた名もなき女性たちは消えてアンディひとりのみのルーティンとなっている。
 功成り名を遂げ、その他大勢のひとりでしかない代わりに多様に開かれていた未来はひとつの現実に収束した。つまりは、そういうことだ。あれから20年が経った。

『1』でアンディは新聞社の調査報道記者として輝かしいキャリアを歩んでいた。が、その栄光は映画の冒頭で早々にうばわれてしまう。コスト削減のため、新聞社はアンディを含めた調査報道部門をまるごと解雇したのだ。新聞の死。報道の死。メディアの死。
 落ち込んでいたアンディに、かつて訣別した『ランウェイ』誌からのオファーが転がりこむ。彼女は奴隷労働で利益を上げているブランドを讃えた咎で炎上中の編集長ミランダ(メリル・ストリープ)で揺れる編集部を救うために呼び戻されたのだった。アンディは謝罪声明記事を書き、『ランウェイ』のウェブ版に載せる。記事は真摯な姿勢が評価され、一定の好評を得る。アンディはこれならミランダも認めてくれるはずだと胸を張るものの、編集長はすげない。誰があんたの記事なんて読んでるの、という。そう、もはや誰も雑誌など読まない。ウェブだろうが、紙だろうが。
『プラダを着た悪魔』はファッション業界についての映画である以前に、メディアについての映画だった。2006年にはモードを左右する帝国だった『ランウェイ』は、2026年には黄昏を迎えている。なぜ、って、説明が必要だろうか? 理由など誰もが知っている。考えたことがなかったとしても、自分のふだんの消費行動を一から省みれば万もの原因におもいいたるだろう。けっきょくは、『ランウェイ』はファッション雑誌なのであり、メディアコングロマットの一部であり、他の古い世代のあらゆるメディアとおなじ運命を共有している。似たような腐臭を放っている。


 死につつある。恐竜であるわれわれは、古い世代であるわれわれは、このメディアは、このジャンルは、ここは逃れきれない破局への途上にある。そのテーゼを発見したのは『プラダを着た悪魔2』が最初ではなかった*1し、そのことをかれらは自覚もしている。どころか、もはや当たり前の現実として受け入れてすらいる。
『2』のラストをネタバレを避けてひとことで表すのなら、『トップガン: マーヴェリック』のあのセリフがちょうどいいーー「そうかもしれませんね。でも、今日じゃない(Maybe So, Sir. But Not Today.)」。





 当時、トム・クルーズのあのセリフは老兵たる自分だけに向けられたものでなく、映画業界全体に対するエールとして受け止められた。そしてもちろん、『プラダを着た悪魔2』もまた映画業界のメタファーとして機能している。AIの台頭に対する恐怖やテックビリオネアに牛耳られつつある現況(MGMはジェフ・ベゾスに、パラマウントとワーナーはデヴィッド・エリソンに買収された)は奇妙なほど、といいたいところだけれども、もはや陳腐なほど自然に『2』のプロットに溶けこんでいる。
 だが、その滅びはもはや「明日」なのだろうか? みんなに知れわたっていることは、すでに現出しているもの同然なのではないか? 映画業界の終わりについて語る映画はそのグロテスクなセルフパロディをすすんで演じている。
『トップガン・マーヴェリック』はエリソンのスカイダンスのもとで作られたし、ミランダのモデルとなった『VOGUE』のアナ・ウィンターが議長を務めるMETガラの今年の共同議長はジェフ・ベゾスだ。
 首斬り役人がお経まで読んでくれている、というわけで、ではやはり死んでいるのでは?


 だが、「終わっていること」は映画は描けない。死は一切を停止させるが、物語は生起が義務付けられている。「終わりつつあること」や「終わっていること」を描けたとしても、「終わったこと」を描けるようにできていない。それは映画に限った話ではなく、他の媒体も、われわれ自身だってそうだ。

 かつてボードリヤールはこう指摘した。歴史が終わっていたとしても、われわれはその「終わり」に燃料を焚べつづけるようにできているのかもしれない、と。



かつて私たちは狂乱の後に来るものを問うた——喪か、メランコリーか。だが、おそらくそのどちらも来ない。すべてが終わりを迎えつつあるという黙示録的な予感の中でやってくるのは、近代以降におけるすべての変遷とその解放プロセス(民族、性、夢、芸術、無意識——要するに私たちの時代の狂乱を構成するすべてのもの)の際限のない後始末だろう。未来へと突き進んで飛び立つ代わりに、私たちは回顧的な黙示録と包括的な改訂主義を好む。


Jean Baudrillard, The Illusion of the End(English Edition)



 物語は模倣しかできない。わたしたちはかつて見た「なにかの終わりについての話」でしか終わりを描けないし、なぜだか知らないがそれをひたすら反復することで終わりを先送りできると考えている。
 あるいは(もっと悲惨で現実的な仮定として)単に終わったあとの話を手札に持ちあわせていないだけかもしれない。
「終わりつつある」と語り続けることでしか「終わり」を表現できない。なにもかもがとっちらかってわやくちゃになってる混沌のなかから、使える材料をかき集め、本作のアンディの恋人となる建築家(パトリック・ブラモール)のように崩れかけた歴史的建造物をリフォームして高く売りつけるようにして、なんとかなにかを絞り出すのだ。後始末の作業として。
 ここに奇妙なジレンマがあって、そのような映画は「つつある」と強迫的にいいつづけられていても「終わった」と言い切ることはできない。
 ランティモスの『ブゴニア』のラストが示すように、終わるということは終わるということだ。続きがない。そこから現生地球人類の営みを描くことは不可能になる。営みなど、消滅してしまうのだから。
 なにより、映画で描かれる「終わり」がつねに映画業界のメタファーである以上、その終焉を受け入れることは映画そのものの自意識が許さない。特にスターが。




 
 この終わった世の中で『トップガン:マーヴェリック』と『プラダを着た悪魔2』を「終わり」についての映画として成り立たせている要素はなにか、といえば、それはスターたちの顔だ。トム・クルーズの顔であり、アン・ハサウェイの顔であり、メリル・ストリープの顔である。
 両作品とも数十年越しの続編という、本来なら超越不可能であるはずのブランクをたやすく成り立たせて、かつ「それは今日ではない」と言い切らせるだけの傲岸さと力強さを兼ね備えられるのはこれらのスターの顔が一作目と変わらずにそこにあるからだ。
 それはハリウッドスターは若作りがうまい、といった美容的な事実だけでなく、もっと魔術的でおそろしい事態でもある。トム・クルーズやアン・ハサウェイやエミリー・ブラントの顔は20代前半当時と変わらず朗らかに画面に現れる。十分におどろくべき事態だけれど、それはいい。だが、前作で50代だったメリル・ストリープが20年後も50代のままのように現れ、50代のときと変わらぬふるまいを見せるときに抱く、いわくいいがたい畏れをなんと形容したものだろう?
 いま。この瞬間。編集会議でクリスマスツリーのようにゴテゴテとタッセルをぶらさげたドリス・ヴァン・ノッテンのジャケットを着て、ハサウェイをいびる75歳のメリル・ストリープの両肩に、映画界全体の、あるいは人類すべての運命がかかっている--そんな錯覚さえ抱いてしまう。心打たれさえする。わたしが変わらないから映画も滅びない。そう宣言しているかのようだ。

 
 これまでハリウッド俳優たちが鼻筋にプロテーゼを挿れ、咬筋にボトックスを打ち、糖尿病でもないのに糖尿病治療薬を使ってまで減量するのは自分の身体の市場価値を保つための営業努力か、さもなくば誇大的なナルシシズムかだとおもっていた。まちがっていた。変わらないことはスターの神聖な義務なのだ。映画を永遠にするためには、まずみずからを永遠にしなければならない。
「今日ではない」とトム・クルーズが断言したときにわたしたちが信じられるのは、トム・クルーズがトム・クルーズであるからだ。同じセリフをキャリアの紆余曲折を経て、声帯まで失ったヴァル・キルマーが言ったらそれはそれで味わい深かった(『ヴァル・キルマー/映画に人生を捧げた男』は観るべきドキュメンタリーだ)ろうが、だが映画の存続までは信じられなかっただろう。トム・クルーズは36年前と変わらずトム・クルーズでありつづけた。本人が不死でないのなら、どうして自分の属する世界の存続を語れるだろう?
 かれらの顔はある意味では古代ローマの廃墟のようなものだ。あるものの死は、死なないものを通して伝えられる。あるいは、墓碑のような、といってもいい*2。フィッツジェラルドの短編「氷の宮殿」で、北部人の男性と婚約した南部の娘がフィアンセを南北戦争で戦死した南軍兵士の墓が立ち並ぶ墓地へと連れて行くくだりを思い出そう。彼女はこういうのだ。「みんなこの世でもっとも美しいもののために死んだのよーー死せる南部のために」と彼女はいう。「夢の対象は全部死んでしまった物事ばかりだから幻滅を感じる危険性がないんですもの。…(中略)…ここには何かがあったの、何かが! あなたに分っていただこうとしても、とてもできそうにないけれど、何かがあったのよ*3


 映画も、出版も、ファッションも、いまやアンシャン・レジームの呪われた美であって、それは『プラダを着た悪魔2』でも十分に意識されている。言及さえされる。ミランダは、『ランウェイ』を買収せんと目論むイーロン・マスク*4じみたテックビリオネア(もちろん彼はあらゆる面におけるAIの導入と人間の消滅を大いに擁護している)に古典的な美の不滅を説きつつも、同時にその終わりを自覚する。あれほどまでに剛毅だった名物編集長の顔が、感傷と哀悼の涙にあふれている。

 そして、その顔にわれわれは金を払う。狭い意味ではチケット代として、広い意味では、そう、あらゆる意味で。
 スクリーンの外に眼を転じると、アメリカでの展開はダイエットコークとコラボしたり40ドルもするポップコーン容器を売ったりと商魂たくましい。滅んだあとでさえ、人はグズグズと生きつづけなければならず、われわれは買いつづけなければいけない。
 それをもっとよく体現していたのが、映画本編の直前に流れたシャネルのCMだった。カイリー・ミノーグの「Come Into My World」のMVをマーゴット・ロビー(彼女もスターだ)を主演にしたパロディ。シャネルが新作バッグ「CHANEL 25」にちなんで、26年にリリース25周年を迎える「Come into My World」をミシェル・ゴンドリー直々にセルフオマージュさせたものだ。


www.youtube.com


 ノスタルジーとよぶにはあまりあっけらかんとして脈絡もてらいもないあのCMのような過去を、われわれは贖いつづける。スクリーンの向こうに映る不死者たちを羨みながら、すでに無名兵士の墓地に埋葬されてしまったわれわれは……。



*1:イーストウッド映画や『雨に唄えば』などをひきあいに出すまでもなく、映画はトーキー登場以来滅びゆく自身への哀惜と感傷を持ち続けてきたマゾヒスティックなメディアだ

*2:マーク・フィッシャーはこういっている。「博物館のなかでしか出会えないようになってしまった文化は、すでに枯れきっている。記念や顕彰に明け暮れる文化は墓場である。それを見る新たな眼差しがもはや存在しないとき、いかなる文化的対象もその力を保つことはできない。」(https://k-punk.org/coffee-bars-and-internment-camps/) おそらくフィッシャー的には『トゥモロー・ワールド』と『プラダを着た悪魔2』は似たような映画だ。

*3:沼澤洽治・訳

*4:ところでこの人はいったい何回2020年以降の映画の悪役にされているんだろう?