寅子が「はて」と言いそうな 戦時中、女性の化粧はどう捉えられていた…当時の投書からたどる

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世論調査部 深谷浩隆

 日本初の女性弁護士の一人・ ()(ぶち) 嘉子をモデルにしたNHK連続テレビ小説「虎に翼」が人気だ。昭和の時代に女性たちがさらされる不条理に、主人公の (とも)() (愛称は「トラコ」)が「はて?」と疑問を呈していく姿が、視聴者の共感を呼んでいる。当時の日本社会は、「女性」という存在をどのように捉えていたのか。読売新聞に読者から寄せられた投書をたどると、ドラマのシーンに重なるような光景が見えてきた。

世相を映す「戦争投書アーカイブ」

 今年11月で創刊150周年を迎える読売新聞は、1874年(明治7年)の創刊当初から投書を募り、紙面に掲載してきた。その中から、戦争に関する投書をまとめて読売新聞オンラインで公開しているのが「 わたしが見た戦争 戦争投書アーカイブ 」だ。

 来年には戦後80年を迎え、戦争体験者の声を拾い上げることが年々難しくなっている。投書であれば、戦後の価値観で上書きされていない当時の暮らしや人々の思いを読み取ることができるのではないか――。そんな発想で昨夏スタートした戦争投書アーカイブには、まず太平洋戦争があった1941~45年の掲載投書を中心に500本超を収録。今後も対象期間を広げながら、掲載本数を増やしていく予定だ。

戦時中の投書をまとめた読売新聞オンラインの「戦争投書アーカイブ」
戦時中の投書をまとめた読売新聞オンラインの「戦争投書アーカイブ」

「虎に翼」の光景、投書では…

 この4月に放送が始まった「虎に翼」も、そんな時代の風景を映してきた。

 寅子は大学で仲間たちとともに法律を学び、38年に法曹資格を得るための試験に合格した。その前年、日本は盧溝橋事件で中国との戦争に突入した。

 その後、寅子と大学で親しくしていた花岡が、裁判官になるための試験に合格。寅子は親友で義姉の花江に背中を押され、好意を抱く花岡と二人きりでの祝いの席に、おめかしをして臨む。ところが、周囲の男性弁護士らはまったく鈍感で、寅子の変化にちっとも気づかず……という様子が、コミカルに描かれた。

 当時、女性の身だしなみを男性はどのように見ていたのか。ドラマより少し時期は遅れるが、日米開戦2か月前の41年10月、女性の化粧をめぐる論争が読売新聞紙上で繰り広げられていた。

東北の青年「都会の婦人の化粧が残念」

 きっかけは、 東北から上京したという一人の青年の投書(1941年10月22日) だった。全文は戦争投書アーカイブに掲載しており、ここでは一部を抜粋し、読みやすいように要約・変換して紹介する。

 青年は投書で、 「都会に来て一番残念に思うことは婦人の化粧です」 と嘆いた。 「顔を真白に、唇を真紅に塗り、黛を引き、本物の顔とは似ても似つかぬお面の顔のような風」「頭髪はわざと縮らして外人のまねをしたような風」 と書き連ね、 「これらが非常時日本の女性といえましょうか」「あんな顔や身なりをしていては家事も事務も、銃後の奉公も本当に真剣には出来ないと思う」「いわんや労働などには到底身を入れることは出来ぬ」 と非難した。

 ならば理想の女性像はと言えば、 「日本女性の美しさは化粧にあるとは思いません。それはどこまでも心の美しさにあり、また繕わぬ健康な肉体にある」 と論じ、田園や工場で働く他の女性や戦地の兵隊に思いをはせるように諭している。

侃々諤々(かんかんがくがく)の投書欄

 この投書が論戦の火蓋を切った。3日後、 青年に反論する投書(41年10月25日) が掲載される。

  「私は近頃の東京を始めとして大都会の女性たちの身だしなみが、簡素な中にも美しさを見出して次第に立派になって来ていると思う」 とし、 「女が美しくなってはいけないという法はどこにもない」 と断言。

  「都会の女性だからといって遊んでいるのではない。職業婦人の大群がおり、父や兄や恋人を戦線に送った女性は無数である」「単純に都会の女性を罵倒するよりも、東北の貴君の村の娘さんが簡素な洋装で活発に村道を歩くことを考えてみてはいかがですか」 と呼びかけている。

 その後も、 青年の肩を持つ投書(41年10月28日) や、 ごく一部の女性を引き合いに出した主張に対する批判(41年10月31日) が続く。

女性を見る目、「男子が反省すべき」

 応酬の最後を締めくくったのは、 「元をただせば男性が悪い」と言い放つ投書(41年10月31日) だった。

  「女が華美な風をするのは、元をただせば男性が悪い。男性が女性を評価する標準がその人間を見ずして多く (がい)(ぼう) によるからである」 と、外見重視の姿勢を批判。令和の世なら「ルッキズム」という言葉で指弾しただろうか。

  「服装も頭の中も生活も事務も、みな西洋風の輸入であり模倣でありながら、女性に対してのみいつまでも日本娘であれというのは、むしろ女性を (こっ)(とう) 品または愛玩物視している証拠である。男子自ら反省すべきときである」 と、最後まで手厳しい。

女性の化粧をめぐって、投書で白熱した議論が繰り広げられた
女性の化粧をめぐって、投書で白熱した議論が繰り広げられた

「豚娘」から「家庭婦人の解放」まで

 このほか、女性の身だしなみや振る舞いに対する投書は、戦時下から終戦後までしばしば掲載された。今で言えばアイドルファンのようなものだろうか、口紅やおしろいをつけて劇場の楽屋口に集まる女性たちを「豚娘」とののしる投書もあった。

 寅子は父・直言の影響もあり、よく新聞を切り抜いていた。彼女が投書欄を読んでいたら、何度の「はて」が飛び出したことか。

 もちろん批判ばかりではない。戦後には、 女性参政権の付与を受けて「家庭生活の過労からの婦人解放」を訴える投書(45年10月20日) も載った。ここでは紹介しきれないので、気になる人は戦争投書アーカイブで「ジェンダー」のテーマに分類した投書を見てほしい。なお、投書ごとの見出しは、現代の読者が読みやすいようにアーカイブ収録に際して付け直している。

県知事宛ての始末書

 それにしても、戦時中の投書欄でここまで率直な議論が交わされていたとは意外だった。当時の新聞は軍部にしたがってウソの戦果を書き立て、戦意高揚のプロパガンダの役割を果たした。だが、投書欄には、政府や報道に対する不平不満も少なくなかった。日本近現代史を専門とする大学教授も、「戦時中の新聞の投書欄が、これほど多様なメディアだったことに驚いた」と口にした。

 言論統制は投書欄にも及んでいた。横浜市のニュースパーク(日本新聞博物館)が河北新報社から寄託されて保管する「始末書」の写し(約40通)のなかに、投書に関するものもある。紙面に掲載した投書について当局から指摘されたことに対し、編集幹部が「恐縮」して「今後は十分注意する」と宮城県知事宛てに伝える内容だ。当局が投書欄にも目を光らせていたことがわかる。

河北新報社が宮城県知事宛てに出した始末書(1940年1月31日付)の写し(日本新聞博物館所蔵)
河北新報社が宮城県知事宛てに出した始末書(1940年1月31日付)の写し(日本新聞博物館所蔵)

繰り返された「利敵行為」

 河北新報が注意を受けたのは、様々な物資の不足を嘆く投書(40年1月)や、円滑な配給を政府に求める投書(39年12月)だった。同紙の社史「河北新報の百年」では、「生活の実態を具体的に報じることは、国民の不満を募らせ利敵行為になるとの考えから」投書も規制対象になった、と説明している。

 逆に言えば、人々は生活への不満を投書にしたためて新聞社に送り、当局の監視をかいくぐって掲載まで至ったものもあったということだ。読売新聞も同様の投書をたびたび掲載していた。もしかしたら、当時の新聞社にも、寅子のように「はて」と首をかしげ、投書欄を通じて市民の声を届けようとした記者がいたのかもしれない。

 戦争投書は、戦争によって人々が体験した多くの理不尽と、それにあらがおうとした無数の小さな声を、今に伝えている。

新聞が戦争に協力した歴史と反省を伝える展示(横浜市中区のニュースパークで)
新聞が戦争に協力した歴史と反省を伝える展示(横浜市中区のニュースパークで)

プロフィル
深谷 浩隆( ふかや・ひろたか
 新潟支局、政治部などを経て世論調査部。世論調査のほか、投書欄「気流」のX(旧ツイッター)アカウント( https://x.com/Kiryu_yomi )にも携わる。「虎に翼」は録画して週末にまとめて楽しむ派で、本稿の挿絵も録画を見ながら描いた。

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