花袋癒やした渓谷美…奥多摩町(東京都)
完了しました
不遇の人にして、不遇の山水を見る。豈(あに)悲しきことにはあらずや――――田山花袋「不遇山水」(1896年、「文芸倶楽部」臨時増刊「小説六佳選」)

多摩川上流へ向かうにつれ、山はより高く谷は深くなってゆく。東京都の西端、奥多摩町の鳩ノ巣渓谷遊歩道を歩くと、「大岩
1894年、小金井の桜を見に行った花袋はそのまま山梨県に至る青梅街道を同行者と歩き、多摩川上流部の風景を紀行文「不遇山水」に記した。この地を23年前に旅した儒学者、林鶴梁の紀行文に感化されての旅で、当時22歳。「同世代である泉鏡花が世に出たのに、自分はそうでない。東京に近いのに知られていない奥多摩の不遇な山水を、不遇な自分が見てみようとの思いだった」と専修大学の山口政幸教授(67)(近現代文学)は言う。


花袋の足跡をたどり、さらに上流へ。白丸駅近くの旧青梅街道には、元禄期に岩を割って奥地との交流を可能にした「数馬の切り通し」が残る。氷川地区から先の「奥多摩むかし道」を歩けば、馬の水のみ場や、歯痛の人が頼った虫歯地蔵が旧街道を行き交った人々をしのばせる。渓流のつり橋の上で揺られ、東京最深部のあまりの山深さに驚きを新たにした。
この先、花袋は旧小河内村(奥多摩町)に到着、川沿いの鶴の湯温泉に泊まり、旅の疲れを癒やした。「美しき景色を呈して、われ
花袋の泊まった宿は今、ダム湖(奥多摩湖)の底だ。東京の水がめとして戦前から戦後に小河内ダムが建設され、山梨県側を含め945世帯が移転した。「源泉のある温泉神社近くに4軒ほどの旅館があり、文化人も多く訪れた。故郷が沈んだ人々は切なさ、悔しさなどいろんな思いがあったはず」と「奥多摩水と緑のふれあい館」の川崎渚学芸員(39)。


湖畔のふれあい館には、小河内の鹿島踊や川野の車人形(ともに国重要無形民俗文化財)、獅子舞の道具や衣装が展示されている。小河内を始め奥多摩町は郷土芸能が盛んで、集落全戸がダムで移転しても、移転した住民や子孫が支える芸能もある。「山に囲まれ、生活は豊かでなくても郷土芸能などの文化は豊富。そういう意味で奥多摩は豊かな土地だと思う」。その言葉に山水の幸福を感じた。

田山花袋
(たやま・かたい)
1872~1930年、小説家。現在の群馬県館林市生まれ。1891年「瓜畑」を発表、99年「博文館」に入社。私小説の先駆けとなった「
文・佐藤憲一
写真・鷹見安浩
岩壁の間 宿場に猫アート 青梅市
田山花袋は1894年の「不遇山水」の旅で、奥多摩に向かう前夜、青梅宿(青梅市)に1泊した。雨の泥道を歩いてきた怪しい風体のためか、立派なはたご屋に次々断られ、ようやく泊まれたぼろ宿で薄い布団にくるまれて、不遇の思いを募らせた。

今の青梅は旧青梅街道沿いに古い町並みが残り、昭和レトロ感が漂う。薬局の隣に「猫と共に去りぬ」、電話ボックス横に「怪猫二十面相」……イラストレーター・山口マオさんの手になる、猫を用いたパロディー映画の看板があちこちに立っている。
「にゃにゃまがり」の名の路地には猫アートが、寺にも猫地蔵が祭られている。この数年、猫アートに出合える「西ノ猫町」として町おこしを図っているのだ。
「私の子供の頃は、青梅は
次は、林鶴梁が絶賛しながら花袋が行くのを諦めた多摩川支流の奥、
たいまつの火に頼って花袋が見た蓮華岩や
●ルート 東京駅からJR中央線・青梅線快速で青梅駅まで約1時間25分、同駅から奥多摩駅まで青梅線で約45分。同駅から奥多摩湖や鍾乳洞行きのバスも。
●問い合わせ 奥多摩町観光案内所=(電)0428・83・2152
[味]多彩なわさびの加工食品

奥多摩町では清流を生かしたわさび栽培が盛ん。江戸時代末頃から栽培を始め、1921年から加工食品を手がける「奥多摩わさび本舗 山城屋」((電)0428・83・2368)の5代目、金子敦社長(69)は「この辺りのわさびは温暖な伊豆などと比べて芋が細長く、辛さが鋭いのが特色」という。
店内には刻んだ茎や芋を酒かすに漬けた昔ながらの本わさび漬のほか、「父の代から種類が増えた」様々な商品が並ぶ=写真=。人気の「数の子わさび」はこりこりした食感が楽しく、甘くて食べやすい。ワインにも合う「チーズわさび漬」はクリーミーな味わいの後にキレのある辛みが。「岩のり風味わさび」はピリ辛の、のりのつくだ煮だ。11月からは柔らかい茎や新芽を使う季節物の「わさび
ひとこと…今も残る温泉の歴史
温泉神社にあった鶴の湯温泉の源泉はダム湖に沈んだが、お湯は湖底から湖畔の給湯場まで揚水され、奥多摩町の宿泊施設などに配湯されている。温泉神社も高台の別の場所に遷座して、毎年、獅子舞の奉納が行われる。南北朝時代にさかのぼるという温泉の歴史が今も残っていることに、静かな感動を覚えた。


























