3Dで残し伝える
東日本大震災
2011年3月11日の東日本大震災の発生直後から、読売新聞の多くのカメラマンが被災地の上空や地上から取材・撮影を続けた。撮影した写真の枚数は発生から1週間で10万枚を超える。
被災状況をさまざまな角度から撮影した膨大な数の写真をあらためて精査し、最新の画像処理技術を使って被災直後の様子を立体的に再現させる取り組みを進めてきた。1000年に1度とも言われる大災害による被災の状況を立体的に残し、後世に伝えていくために。
このページに掲載されている映像コンテンツなどには、津波被災直後の様子を伝える内容が含まれています。
岩手県
- 1野田村
- 2宮古市田老地区
- 3山田町
- 4大槌町赤浜地区
- 5大槌町中心部
- 6釜石市釜石漁港
- 7陸前高田市(米沢商会周辺)
- 8陸前高田市(高田松原)
岩手県野田村
2011年3月12日に町中心部のシンボル的存在として立つ愛宕神社大鳥居周辺の様子を上空から撮影取材したデータをもとに、被災翌日状況を立体的に再現した。
村には最大で約18メートルの津波が襲来。最大遡上到達高は37.8メートルに及んだ。515棟の建物が被災し、37人が犠牲となった。
岩手県宮古市田老地区
震災翌日の2011年3月12日に本社機が田老地区の上空を取材したのは午後3時6分から14分の8分間。上空を旋回して撮影した写真は494枚。それらのデータから当時の状況を再現した。
「万里の長城」と呼ばれた高さ10メートル、総延長2.4キロメートルに及ぶ巨大な防潮堤も集落を守ることができず、倒壊した家屋が防潮堤の陸側を埋め尽くしていた。陸側エリアには、震災後、「道の駅たろう」や野球場が整備された。
津波で4階まで浸水し、1、2階の骨組みがむき出しになった「たろう観光ホテル」は震災遺構として残されている。同地区の語り部ツアー「学ぶ防災」では、最上階の6階で撮影された津波の映像を見学者に見てもらうなどして津波の恐ろしさを伝えている。
岩手県山田町
本社機が山田町中心部上空を旋回して取材を行ったのは、2011年3月12日午後2時47分から53分の6分間。写真の枚数は273枚。大規模な火災で煙が立ち上っていたため風下側は飛行せず、風上側(海側)からの撮影を中心に行い被災の状況を記録した。津波に流されず残ったものの、火災で焦げて黒ずんだ建物の姿がいくつも確認できる。山田町の死者・行方不明者は826人。約3300棟の家屋が被災した。
岩手県大槌町赤浜地区
津波で2階建ての旧民宿「あかぶ」の屋根に、観光遊覧船「はまゆり」が乗り上げた大槌町赤浜地区。住民の約1割に当たる93人が亡くなり、民家は約190世帯が被災した。震災後、高台に住宅再建が進み、同民宿も移転して営業再開した。
岩手県大槌町中心部
町の中心部は高さ10メートルを超える津波に襲われ、市街地は壊滅、町は、加藤宏暉町長(当時)をはじめ全職員の3割にあたる40人を失った。町全体では、行方不明者や関連死を含む1286人が津波などで犠牲となった。高台の中央公民館では多くの被災者が避難生活を送った。
被災した大槌駅は、テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる大槌湾の蓬莱島をモチーフに、ひょうたんの形をした屋根が特徴のデザインで再建された。沿線には災害公営住宅などが次々と建設された。2025年8月には、町内初の追悼施設「鎮魂の森あえーる」が完成。芳名碑には犠牲者らの名が刻まれている。
岩手県釜石市釜石漁港
「鉄の町」として発展してきた岩手県釜石市。津波により防潮堤は倒壊し波は市の中心部まで達した。死者・行方不明者は1100人以上にのぼる。釜石漁港岸壁に大型貨物船「アジア・シンフォニー」が座礁した。震災当時、新日鉄釜石製鉄所向けに鉄の原料の荷降ろし中に被災。防潮堤を突き破り、船首が道路の一部を塞ぐ格好になった。
岩手県陸前高田市(米沢商会周辺)
2011年3月12日に本社機から空撮した写真約1160枚から作成。被災した市街地のほか、スーパー「マイヤ」の屋上での救助活動の様子や米沢商会ビルでの救助活動、県立高田病院での救助活動の様子を報じる写真を基に当時の被災状況を3Dで再現した。
陸前高田市を襲った津波は最大18.3メートル。1800人以上の死者・行方不明者を出した。津波は、市中心部にあった市役所(鉄筋コンクリート3階一部4階建て)の屋上にまで到達し、全職員の約4分の1にあたる111人が犠牲になった。再生した街に残るのは、所有者が自力で「震災遺構」として保存する包装資材卸業「米沢商会」の鉄筋3階建てのビル。所有者の米沢祐一さんは「記憶の風化を防ぎ、海からの距離と津波の高さを体感してもらいたい」と、震災を伝える語り部活動を続けている。
岩手県陸前高田市(高田松原)
高田松原は1940年に国の名勝に指定され、震災前には約7万本の松林が広がっていた。だが、東日本大震災で高さ18.3メートルの大津波に襲われ、白砂青松の景勝地として知られてきたこの場所にあったマツは「奇跡の一本松」を除いて流失。再生を目指して、県や地元のNPO法人「高田松原を守る会」などが2017年から4年かけて約8ヘクタールに苗木を植樹した。震災前の高さ約20メートルまで育つには50年ほどかかるとされる。
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被災前の高田松原
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【震災遺構】奇跡の一本松
かつて高田松原に広がっていた約7万本の松林の中で、高さ18.3メートルの大津波に耐えて唯一残った松の木。その力強い姿は復興のシンボルとして人々を勇気づけた。
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【震災遺構】タピック45
タピック45(旧道の駅高田松原)の開業は1991年。避難施設として設計された建物は、階段状の屋根を上がれるようになっていた。東日本大震災で押し寄せた津波は高さ14.5メートルに達したが、3人が屋根の上に逃れて助かった。津波の威力を伝える遺構として、2021年から一般公開されている。
宮城県
- 9気仙沼市鹿折地区
- 10気仙沼大島
- 11南三陸町
- 12女川町
- 13石巻市
- 14仙台港
- 15名取市閖上(ゆりあげ)地区
- 16仙台空港
宮城県気仙沼市鹿折地区
宮城県気仙沼市は最大20メートルを超える津波に襲われ、被害は死者・行方不明者合わせて1400人以上にのぼった。波の直接的な被害に加え、流されてきた漁船や燃料タンクに引火するなどして発生した「津波火災」が各所で発生した。鹿折地区では、大型漁船「第18共徳丸」(全長60メートル)が、沿岸から約800メートル内陸部まで打ち上げられた。津波で陸に入り込んだ船の中では最大クラスだった。街が復興へと進む中、多くの人が見学に訪れ、途方もない津波の威力を実感していった。保存して、一帯を祈念公園として整備する計画もあったが、2013年秋に解体された。
宮城県気仙沼市大島
気仙沼市の離島・大島は海沿いにある家屋が多く流された。細長い島の東西から津波が押し寄せ、中央部で衝突し、島は一時南北に分断された。燃えるがれきは島にも流れ着き、山火事も発生。島と同市中心部を結んでいた「大島汽船」のフェリーは桟橋ごと浮き上がり、岸壁から約200メートルの内陸まで流され、約2週間にわたって孤立していた。「トモダチ作戦」で、米軍が救援に入った被災地の一つが同島だ。
宮城県南三陸町
東日本大震災では最大高さ21.5メートルの津波が一帯を襲い、町全体で死者・行方不明者など合わせて830人以上が犠牲になった。最後まで津波からの避難を呼びかけた宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎では職員ら43人が犠牲に。町は津波の記憶を後世に伝えるため庁舎を震災遺構として保存。冠婚葬祭場だった民間の震災遺構「高野会館」には、3階天井近くまで津波が迫ったが、地域住民や従業員ら計327人は屋上や4階に避難して助かった。
宮城県女川町
女川町を襲った津波の最大浸水高は18.5メートル。中心部が壊滅的な被害を受け、575人が犠牲となった。観光物産施設「マリンパル女川」では3階まで津波が到達。大きな被害が出たが、屋上は辛うじて波を逃れ、屋上に避難していた従業員ら12人が助かった。被災後は、高台に災害公営住宅が建設されるなどして住民の生活再建が進み、2015年12月に女川駅前に整備されたテナント型商店街「シーパルピア女川」などには多くの観光客が訪れている。
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【震災遺構】旧女川交番
町中心部にあった旧女川交番は東日本大震災の津波に襲われ、引き波で基礎部分のくいが引き抜かれて横倒しになった。勤務していた2人の警察官は高台に避難して無事だった。
交番は震災当時の姿のまま保存することを目指し整備され、周囲を約5メートルかさ上げしスロープが設置された。来場者はスロープを上りながら全方向から交番を見られる。スロープの壁には町の復興の歩みを物語るパネルも展示されている。
宮城県石巻市
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【震災遺構】宮城県石巻市の旧大川小
東日本大震災の津波により児童74人、教職員10人が犠牲となった石巻市立大川小学校。海からは3.7キロメートル内陸に位置しており、津波は到達しないと思われていた。しかし津波は北上川を遡上し、午後3時37分ごろ、学校から避難する児童らを津波が襲った。
仙台港
地震と津波の被害を受けた仙台港周辺では、流出した石油が数日にわたり燃え続けた。2011年3月12日に仙台港周辺を取材する読売へりからも大きく立ち上る黒い煙が記録されている。震災当時、被災地では深刻な燃料不足に陥り、多くの車両がガソリンを求めてスタンドの前に車列を作った。被災した石油元売り最大手「JX日鉱日石エネルギー」の仙台製油所(仙台市宮城野区)は東北地方の主要製油所。敷地全体が浸水し、タンクや出荷設備が焼失。2012年3月に生産を再開した。
宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区
名取市の犠牲者の約8割に当たる754人の死者・行方不明者が出た閖上地区は、壊滅的な被害を受けた。2011年3月11日に多くの家屋が浸水する中、火の手が上がる様子や、翌日に特別養護老人ホーム「うらやす」で行われた救助活動の様子を上空から撮影したデータをもとに、当時の状況を立体的に再現した。同ホームの施設内にも津波が流れ込み、30人以上の入所者が亡くなった。
仙台空港
本社ヘリで2011年3月17日に撮影した写真を基に3Dを作成した仙台空港。地震と津波により甚大な被害を受けた様子が見えた。空港周辺は広く冠水し、滑走路にはがれきや車両などが散乱。一日も早く復旧させるため、滑走路周辺の漂着物を取り除く作業が行われていた。震災から1か月が経過した4月13日には一部の国内線の運航も再開され、被災地と主要都市を結ぶ空の玄関口として、東北地域の復旧・復興を支えた。
福島県
- 17南相馬市原町区
- 18福島第一原発
- 19福島県大熊町
- 20いわき市小名浜
- 21いわき市平豊間地区
福島県南相馬市原町区
福島県南相馬市の沿岸部には津波が押し寄せ甚大な被害をもたらした。原町区の介護老人保健施設「ヨッシーランド」で37人が死亡したのをはじめ、多くの人命が犠牲となり、1500世帯超の住家が全半壊や浸水の被害を受けた。2020年、津波と原発事故で被害を受けた福島県浜通り地方の産業復興計画の一つとして、「福島ロボットテストフィールド」が整備された。インフラや災害現場など実際の使用環境を再現しており、ロボットの性能評価や操縦訓練などが現在行われている。
福島第一原発
東日本大震災の津波で電源が失われ、1~3号機で炉心溶融が起きた東京電力福島第一原子力発電所。1、3、4号機は水素爆発を起こし、爆発で損傷した建屋から放射性物質が流出。住民たちは避難を余儀なくされた。除染作業などにより少しずつ避難指示は解除されるも現在も住民が戻れない高線量の帰還困難区域が残る。原発事故から13年半を経た2024年11月7日、東京電力が廃炉の最難関とされるデブリの取り出しに初めて成功。しかし未だ1~3号機の原子炉内には、2011年の原発事故で発生した推計約880トンのデブリが残っている。政府・東京電力は事故から40年後となる2051年までの廃炉完了を掲げている。
福島県大熊町
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大熊町立熊町小学校
東京電力福島第一原発の事故後、時間が止まったまま今に至る福島県大熊町の町立熊町小学校。学校の周辺は、帰還困難区域であると同時に津波の被災地でもある。学校の体育館には、マットや保健室の毛布で暖をとった痕跡が残っていた。体育館にはずぶぬれの住民が避難してきたという。同小では、下校していた1年生の女児が犠牲になった。震災遺構として保存することが検討されている。
福島県いわき市小名浜
福島県を代表する漁業基地、いわき市・小名浜港の岸壁近くには鮮魚店や食堂が並んでいたが、5メートルを超す高さの津波が押し寄せて壊滅的な被害を受けた。岸壁にある観光物産施設「いわき・ら・ら・ミュウ」や水族館「アクアマリンふくしま」は2011年中に再開し、当時、原発事故による風評被害の払拭(ふっしょく)にも一役買った。
福島県いわき市平豊間地区
福島県いわき市平豊間地区は、高さ8.5メートルの津波に襲われた。流失家屋は同地区の約7割に当たる400戸を超え、住民85人が犠牲になった。